日本語の「きれい」には「美しい」と「清潔で整然としている」の2つの意味がある。日本の都市は「きれい!」と呼ぶに値する。日本には中国の「城管(都市管理行政法執行局)」のような組織はなく、巨額の財政を投じて支える「城管隊員」の大軍もない。だが日本を訪れた人は誰しも都市や農村の清潔さ、公共の場所の秩序に感服し、「民度が高い」と日本人を心から称賛し、「中国人は数十年経っても追いつけない」と感じる。こうした見方を裏付ける実例も数多くある。例えば10数万人の日本人がスポーツの試合を観戦して帰った後、競技場にはゴミ1つ落ちていなかった等々だ。(文:周冬霖・中国中日関係史学会理事、中日桜花文化交流センター主任)
私も日本の都市や農村を旅行したが、確かに同感だ。日本の都市や農村の「きれいさ」と、わが国や私の暮らす都市とのコントラストは余りにも鮮明で、感慨無量だ。日本の田舎の田畑、果樹園、野菜畑、小屋は全てが清潔で、まるで環境全体が公園のようだ。都市も同じだ。収集時間に間に合わなかったゴミも、密封されているので、ほとんど異臭はなく、指定されたゴミ集積所に整然と分類して置かれている。公共の場所のごみ箱や指定された喫煙所の周囲には吸い殻や空き缶が1つ2つ落ちていることもあるが、非常にまれだ。公衆トイレも清潔でほとんど異臭はしない。東京では、用を足すわけでもないのに公衆トイレを独り占めして休む人がいて、社会問題になっているほどだ。
奈良、京都、広島といった都市は、それ自体が古典美と現代的要素が調和した大きな公園のようで、歩くだけでも快適で楽しい。東京や大阪は中国の北京、上海、広州よりも人口密度が高く、騒音やにぎわいは似ているが、行き交う人の流れは整然とし、黙々と列に並び、小さな声で話しており、人々の声で沸き返るような騒々しさはない。高度に都市化した現在の日本の大都市や中都市は、大通りであれ路地であれ、都市「疥癬」の広告を見かけることは絶対にない。自動車の違法な駐車や放置も目にしないし、クラクションの音も耳にしない。みだりに痰を吐いたり、ごみ、果物の皮、紙くず、食べ物や飲み物の包装を捨てる人も見かけない。喫煙する男性はたばことライターだけでなく携帯灰皿も必ず持ち歩き、自分の灰は自分で持ち帰る。公共の場所で堂々とたばこを吸う人はまずなく、歩道を歩く際ですら、路上に「喫煙禁止」の標識があれば、誰もたばこをふかさない。男性も女性も自分から進んで指定の喫煙所に行って吸う。