京都・奈良・東京を巡る間、観光地・レストラン・電車等の場所で、異なる方言を話す個人旅行客の姿が見られた。彼らは穏やかな様子で、余裕を感じさせた。中国大陸部からのツアー客は見かけなかったが、京都嵐山の竹林の小道で、台湾からのツアー客に出くわした。彼らのガイドが大声で話をしていたのが目立っていた。しかし彼女の大声のおかげで、そばにいた私たちも、日本の歴史を知ることができた。目の前の古い建物は、源氏物語で何度も登場する舞台である、嵯峨野の宮(野宮神社)だったのだ。神社に足を踏み入れ、そこに掛けられていた祈願の札を見ると、英語・日本語・中国語が記されていた。各国の人々の願いはどれも同じで、健康、学業の発展、恋の成就を願うものが多かった。
東京では、1年以上前に東日本大震災と原発事故の時期に訪れたことのある、新宿の寿司屋を訪れた。寿司屋は満席だった。公共の場にも関わらず、日本人は静かで秩序を守っていた。しかし夜になり、数人の男性が着席すると、耳障りな大声が発せられる。これも日本の特色と言えよう。寿司屋では、あの時と同じ数人の老人が、店内で忙しそうにしていた。私は昨年、同僚とここで食事をしたことがあるが、その時は私たちが唯一の客だった。
当時の東京は依然として秩序正しかったが、ひっそりと寂れていた。歩行者の無表情の裏側からは、一種の緊張を感じ取ることができた。新宿は今、元のような賑やかな街に戻った。食後に勘定しようとすると、店員はすでに領収書の準備を終え、印鑑が押されていた。この寿司屋は過去1年間で、多くの中国人をもてなしたようだ。
東京を去る前に、日比谷公園の松本楼を訪れた。ここは孫文と宋慶齢が挙式した場所で、広間には宋慶齢が使用したというピアノが置かれていた。壁には福田康夫元首相と胡錦濤国家主席の写真が掛けられていた。両国の指導者が2008年、松本楼で晩餐を楽しんでいた時、日比谷公園の門の外に右翼団体が押しかけ、スピーカーで抗議活動を行なっていた。彼らの向かい側では、私たち撮影隊と記者団が陣取っていた。
内閣府を通り過ぎた時、壁に掛けられていた巨大ポスターに注意が引きつけられた。それは北方四島の日本側の地図だった。その前夜に見た日本のテレビニュースは、日韓関係が冷え込む中、民間の日韓青年交流活動が通常通り実施されていると報じた。韓国人の大学生はカメラに向かい、「争いがあるからこそ、交流の必要がある」と主張していた。人々が争うのは平和のためか、それとも戦争のためか。私は上述した報道を受け、この問題について考え始めた。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2012年10月17日