それは例えれば、明治時代のビジネスパーソンの生き方が、現代のビジネスパーソンの生き方の手本になるかというほど、遠い差異があるようにおもえます。確かに「日本人の生き方」という精神論は、明治時代も現代も共通しそうでありますが、社会構造、家庭内社会、情報技術、経済システムなどなど多くの違いがある中で、進学、婚姻、職業選択、キャリアについての考え、子育て、老後の暮らし方、などについての課題のトピックは共通性に乏しいような気がします。
ですから、「中国は日本から学ぶことが多い」というのは、なにか漠然とした議論であって、中国の有識者の方も、日本の有識者の方も「学べること(教えられること)が多くあって欲しい」という期待としての動機があるようなだけで、実際には有効的な教師と生徒の関係にならないのではないかと僕は最近思ってしまっています。いやむしろ、国土という大きなインパクト要因を勘案すれば、ここ数十年の日本の経験よりも、1800年台後半から1900年台前半のアメリカの経験(大国としての発展段階)のほうが、いまの中国にとってはじつは関連性が深いのかもしれないと思うほどです。
せっかくの日中民間交流に水を差すようで、あまり大きな声で言えないのですが、僕は「中国は日本から学ぶことが多い」というロジックには懐疑的であります。つまるところ、実態を伴わない知的情報共有関係(教えられる教える関係・経験談の共有)というのは今の日本と今の中国には成立せず、尖閣問題以前のように積極的に双方がイケイケドンドンで市場共有、産業連携、新しい外交フレームの構築調整という方法でしか、双方のメリットはないように思えますねぇ。
ですから、「例の問題は棚上げ」→「中国は日本から学ぶことが多い」という一方向かつ、情報依拠の曖昧なテーマはやめまして、「例の問題は棚上げ」→「関係回復の兆しが見えたら直ちに民間でやるべきコラボ」というテーマで建設的に「今の日本」と「今の中国」の具体的な政治と産業(市場)の共通利益を、このような日中間の状況下であっても考えておくのが双方にプラスなのだろうと僕は思います。
せっかく、珍しく(本当に!!)日本の政治が安定していますから、ちょっと積極的マインドになってもいいんじゃないでしょうか。あれです、日本の巷で流行っている「いつやるのっ?いまでしょっ!」
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2013年3月17日