人民日報:明・清の文献から見る釣魚島の帰属

人民日報:明・清の文献から見る釣魚島の帰属。 地名は今日に生きる歴史の証人だ。明代の文献において釣魚島(日本名・尖閣諸島)は「釣魚台」とも記されるが、より多いのは「釣魚嶼」だ。「嶼」とは小さな島のことであり、「島嶼」と同義である…

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発信時間: 2013-05-17 15:12:11 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

三、中国は1370年代から釣魚島に対して実効性ある管轄を実施

釣魚島等の島嶼は「無主の地」ではなく、早くから中国の主権管轄範囲に組み込まれていた。

中国は明初、すなわち1370年代にはすでに釣魚島等の島嶼に対して実効性ある管轄を実施していた。巡海は実際の管轄の力強い証明となる。洪武五年(1372年)、明朝は浙江、福建に和冦対策船の建造を特命した。『明太祖実録』は航海侯・張赫と靖海侯・呉禎がかつて舟師を率いて「琉球大洋」まで巡海したことを記録している。張赫は洪武六年(1373年)の巡航で和冦に遭遇し、琉球大洋まで追って多数殺戮した。洪武七年(1374年)、靖海侯・呉禎は江陰、広洋、横海水軍四衛舟師を率いて出航。大規模な巡海は一年半以上に及び、琉球大洋まで至って和冦とその船若干を捕獲し、都へ連行した。琉球大洋に至るとは、沖縄トラフのことのはずだ。この海溝は明代の使臣の記録で、明確に中国・琉球両国の自然の境界とされている。明初の巡海は釣魚島列島が福建の海上防衛範囲内にあっただけでなく、明朝全体の海防体系の防衛範囲内にあったことを証明している。

嘉靖年間に和冦の害は猖獗を極め、その後海防図籍も盛んに著された。

嘉靖四十一年(1562年)、胡宗憲の幕僚・鄭若曾が著した『籌海図編』は現存最古で最も詳細な海防図籍だ。巻一「福建沿海山沙図」は釣魚島、黄毛山(黄尾嶼)、赤嶼(赤尾嶼)を海図上に順次配置し、中国の福建都指揮使司の管轄する海防区域であることを明確に記している。釣魚島列島が明朝にはすでに中国の行政統治区域に組み込まれていたことを十分に証明するものだ。その後の海防関連の官民の主要図籍、鄭舜功『日本一鑑』(1565年)、謝傑『虔台倭纂』(1595年)、徐必達『乾坤一統海防全図』(1605年)、王在晋『海防纂要』(1613年)、茅元儀『武備志』(1621年)等はいずれも福建から琉球への針路を記録し、釣魚島島嶼が琉球の領土でも、ましてや無主の地でもなく、中国の領土に属し、中国の福建の海防管轄範囲内にあったことを裏付けている。

『三十六姓所伝針本』で最も注目に値するのは「針路条記」中の「釣魚台を出帆」との記述だ。明代の釣魚島がすでに単なる航海の重要な目印ではなく、中国人の航海活動の重要な場所であったことがわかる。18世紀初めの黄叔巷『台海使槎録』(1722年)は御史として台湾府を巡視し、港として釣魚台を記述。その後台湾地方誌に転載された。清代・乾隆年間の『坤輿全図』等の地図も明から清まで釣魚島列島が一貫して中国に帰属し、釣魚島等の島嶼に対して中国が実効性ある管轄を長期間実施していたことを十分に証明している。

以上をまとめると、釣魚島は中国人が最も早く発見、命名し、かつ中国の歴代政府が実効性ある管轄を実施してきたのであり、その主権の帰属は極めて明白だ。釣魚島及びその附属島嶼は19世紀末に日本に盗み取られる前から、すでに「無主の地」ではなかった。明・清の文献は力強い歴史的証拠を提供し、釣魚島が中国に帰属することの整った証拠体系を構成する。釣魚島は1370年代以降中国固有の領土であることが確定し、中国政府の実効性ある管理・コントロール下にあり、中国が争う余地のない主権を有するのである。(編集NA)

「人民網日本語版」2013年5月17日

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