第一、日本人が琉球を併呑する以前、英国人が釣魚島に上陸するには、事前に福州の琉球館を通じて福建海防官(布政司と都撫両院)に申請文書を提出しなければならなかった。すなわち直接琉球国中山王府に申請するのではなく、中国政府の同意を得なければならなかったということだ。これは釣魚島が決して「無主の地」ではなく、その主権が中国に属することをはっきりと示している。
第二、英国軍艦のエドワード艦長の使用した海図を見ると、釣魚島及びその附属島嶼の名称は全て福建語発音の中国名を使用している。これらの島々を最初に発見、命名、利用したのは日本人ではなく中国人であるはずだ。
第三、当時の文書は日本が琉球を併呑する以前、琉球人も英国人も釣魚島及びその附属島嶼が中国の島々であり、英国人が上陸調査の際に中国政府に申請をしなければ法律違反であることを知っていたことを物語っている。また、琉球と台湾の間に「無主の地」は全く存在しなかったことも物語っている。
第四、サマランが中国政府の許可を得て釣魚島に上陸してから39年後の1884年に、日本人が釣魚島に初めて上陸し、同島が「無人島」であることを確認したと主張したうえ、「無主の地」と見なしたというのは、全く歴史を顧みず、国際法を曲解する、でたらめ極まる話である。
「人民網日本語版」2013年5月31日