かつて広島に原爆を投下した米軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」の最後の搭乗員、セオドア・バン・カーク氏が7月28日に死去した。享年93歳。米国メディアは30日、カーク氏の立場から、1945年8月6日の広島への原爆投下を振り返った。
米陸軍航空隊第509混成部隊は、1944年12月にユタ州の空軍基地で創設された。カーク氏らが上官から受けた任務は、ナチス・ドイツと日本への核攻撃の訓練だった。ナチス・ドイツの降伏後、第509混成部隊は太平洋上のテニアン島に移された。部隊はその時、攻撃目標が日本であることを予想していた。グアム島を本拠地とする米軍第20航空隊は8月2日に秘密の指令を出し、第509混成部隊に対して、広島への原爆投下を命じた。カーク氏は作戦前の最後の時に命令を受け、エノラ・ゲイの搭乗員として参加した。
現地時間6日午前2時45分、原爆「リトルボーイ」を積んだエノラ・ゲイが、テニアン島から離陸した。12人の搭乗員は当時、何を考えていたのだろうか?ニューヨーク・タイムズは30日、「カーク氏は生前本紙に対して、もう一度があるならば、広島原爆投下作戦に参加を志願するかとよく聞かれると語った」と報じた。記事によると、カーク氏は「イエス」と答え、「我々は投降せず、敗戦の現実を受け入れようとしない危険な敵と戦っていた。日本軍はバタン島の死の行軍、南京大虐殺、真珠湾奇襲の際に、道徳の問題を考えたことがあるだろうか?我々は軍人として、米国は最小の犠牲により戦争に勝つべきだと考えた」と述べた。
日本時間午前8時15分、爆撃手のフィアビー氏は「見つかったぞ」と言った。これはエノラ・ゲイが、目標地点の上空に達したことを意味する。広島を象徴する建築物を知っていたカーク氏は、フィアビー氏の言う通りだと判断し、原爆を投下した。原爆は広島相生橋の南東方向の広島病院の上空600メートルで爆発した。ニューヨーク・タイムズは、「カーク氏の案内により、エノラ・ゲイの原爆投下時間は、予定よりも数秒しか遅れなかった」と報じた。軍事行動の中で原爆が使用されたのは人類史上初で、米軍の搭乗員もこの武器がどれほどの威力を持つかを知らなかった。原爆投下から43秒後、カーク氏は爆発による光を目にした。機長のティベッツ氏はすぐに緊急旋回を命じ、広島から一刻も早く離れようとした。しかし爆発による衝撃波が爆撃機に達し、強い揺れが生じた。搭乗員は日本軍の高射砲による攻撃を受けたと思ったが、その後しばらくしてから原爆の衝撃波であることを知った。カーク氏は、「都市全体が煙と灰燼に覆われ、炎が都市を燃やしているのが見えた。もうじき戦争が終わると、重荷が下りたような感覚があった」と述べた。
同日午後2時58分、任務を遂行した爆撃機はテニアン基地に無事帰還した。搭乗員はあたたかく迎えられた。カーク氏は晩年、ジョージア州のラジオ局の取材に応じた際に、「米軍が日本の本土への空襲を続け、上陸作戦を展開していたことを考えれば、広島と長崎への原爆投下は多くの人の命を救ったと言える。戦争が続けば、日本本土とその他の日本占領区に大きな損失が生じていただろう」と話した。
広島の原爆により、多くの日本の被害者が放射線死した。しかし不思議なことに、エノラ・ゲイの搭乗員はみな長寿だった。機長のティベッツ氏は92歳の高齢で亡くなり、爆撃手のフィアビー氏は2000年に81歳で亡くなった。技術者のモリス・ジェプソン氏は87歳で亡くなり、後尾機銃手のジョージ・キャロン氏も76歳で亡くなった。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2014年7月31日