大気汚染が変えた歴史、小倉市を原爆から救う

大気汚染が変えた歴史、小倉市を原爆から救う。

タグ: 大気汚染 小倉 原爆

発信時間: 2014-04-01 15:32:26 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

長崎の原爆投下の現場、長崎の上空にきのこ雲が発生(資料写真)

 

1945年8月9日は、世界の歴史を変えた日だ。この日、日本の小倉市は大気汚染により救われた都市になった。

後世の人々の記述を見ると、小倉市の市民はこの日、上空の巨大な航空機がドアを開いたが、そのまま過ぎ去り何も生じなかったことを目撃した。小倉市の人々はその後、この一幕を何度も回想し、冷や汗をかくことになる。

通常と異なる作戦手段により、戦略的・心理的に日本に深手を与えるため、トルーマン大統領を含む米国の高官がほぼ同時に、「恐るべき新兵器」、原爆に目を向けた。小倉市の市民が航空機を目撃した3日前、米軍は広島に一つ目の原爆を投下した。広島全体が、一瞬にしてこの世の地獄と化した。しかしながら日本の大本営は、戦争を最後まで続けることを宣伝していた。米国人はそこで、目を小倉市に向けた。

九州の海岸に位置する港湾都市の小倉市は、当時40万人の人口を持つ重要な工業都市であり、米国人から原爆投下に適した都市の一つとされていた。実際には、その後原爆を投下された長崎市は「予備用」に過ぎなかった。長崎市も重要な港湾・軍需拠点であったが、低い盆地に位置しているため、地理的位置は広島と小倉に劣っていた。そのため長崎は、広島と小倉に投下できなかった場合の予備の目標とされた。つまりどちらか一方に原爆を投下できなかった場合、長崎に投下しようとしたわけだ。

その後の歴史資料は、小倉市がいかにこの災いを逃れたかを次のように記述している。8月9日9時5分、1機の爆撃機が小倉に到着した。小倉の上空には当時雲が立ち込め、地上が深い煙に包まれていたため、パイロットは目標を発見できなかった。霧が広がり、スコープの視界が遮られた。死神が入れられたドアはすでに開かれ、爆撃機は小倉の上空を45分間にかけて3回まわり、原爆投下の目標地点を探したが、日本軍の高射砲の猛烈な攻撃を受けた。米軍機は高度を上げて、砲火を逃れるしかなかった。4回目に投下の地点を探そうとしたとき、爆撃機の無線連絡員は、日本空軍の通信をキャッチし、日本軍が戦闘機を離陸させる可能性があると報告した。運転手は基地に許可を求める前に、二つ目のプランに移り、機首を転じて長崎に向かった。当時の気象偵察機は、長崎の上空には雲がなく、視界が良いと報告した。同日11時2分、二つ目の原爆が投下された。長崎は広島のように、この世の地獄と化した。この原爆が、日本を無条件降伏させた。

今日でも北九州市立歴史博物館には、原爆に関する展示「あの日、もし空が晴れていたら……」がある。小倉は工業都市で、当時は濃煙が立ち込め、空気中の水蒸気と結び付き煙霧となった。想像もできない運命が、この都市を救ったのだ。

 

「中国網日本語版(チャイナネット)」2014年4月1日

TwitterFacebookを加えれば、チャイナネットと交流することができます。
iphoneでもチャイナネット!

日本人フルタイムスタッフ募集    中国人編集者募集
「中国網日本語版(チャイナネット)」の記事の無断転用を禁じます。問い合わせはzy@china.org.cnまで
 

コメント

コメント数:0最新コメント

コメントはまだありません。