日本人戦犯・吉房虎雄の1954年7月から8月の供述書によると、吉房は1897年に生まれた。日本帝国主義の中国侵略期間中は、大連憲兵隊隊長や関東憲兵司令部副官などに任じられ、1945年9月に平壌で捕虜となった。
吉房が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。
1932年6月初旬に輯安(注:現在の吉林省集安市)を侵略した際には、砲兵が「西門外を避難せらるる平和人民に対して射撃」した。
同月上旬には、輯安で所属の憲兵が「城内平和人民約四〇人を抗日軍に通諜したとの理由を以って逮捕し拷問の上、西門外川岸に於て虐殺しました」。同月中旬と下旬にもそれぞれ、「城内平和人民約二〇人を抗日軍に通諜したとの理由を以って逮捕拷問した後、西門外川岸に於て虐殺しました」
同月上旬には、臨江で所属の憲兵が「城内平和人民五〇人以上を抗日軍に通諜したとの理由を以て逮捕拷問したる後、臨江西南端附近鴨緑江岸に於いて虐殺することを実行しました」。下旬にも、「抗日軍に通諜した疑ありとの理由を以って」、「平和人民四〇以上を(中略)虐殺しました」 同年9月下旬には、輯安と通化の間の村落で、所属の歩兵が「それが平和人民たることを(中略)知得しながら」「機関銃約三〇発を以て」約10人を射殺した。
「一九三二年十月中旬、守備隊が輯安西方村落より強制連行した平和人民二人を」「拷問せしめたのち、抗日軍に通諜したとの理由を以って」「守備隊下士官をして斬殺せしめました」 1932年10月下旬には、「輯安―通化道路上」、部下の憲兵を指揮して、「通化方向より避難し来った平和人民約一〇人を射殺しました」(編集MA)
「人民網日本語版」2014年8月7日