■8月15日:戦争の記憶の継承と忘却
「69年前の8月15日は晴天だった」。「日中友好8・15の会」常任幹事の熊谷憲治さんは記者にこう語った。熊谷さんは吉林省通化市に生れ、日本敗戦時はわずか5歳だった。ぼんやりした記憶を後に母から聞いた話と結びつけて、異国の地で迎えたあの日を振り返ってくれた。「あの日母が、外に出てみたら今まで見たことのない光景を見た、周囲の中国人の農家がどの家も中国の旗を掲げていると、私に慌てて伝えた。あ、ここは人の国、人の土地なんだと、みんな夢から覚めたかのようだった。私たち日本人は人の土地をずっと占領していたんだと」。
熊谷さん一家は朝鮮半島に逃れ、曲折を経て1947年にようやく日本に戻った。熊谷さんは「日本が8月15日まで間違っており、8月15日後にようやく新生を迎えたことは間違いない」と語った。
■8月15日:歴史認識と戦争責任の原点
8月15日をめぐる迷いはその呼称にも表れている。日本政府の正式な呼称では「終戦の日」であり、「敗戦の日」ではないし、ましてや「無条件降伏の日」ではない。こうした表現によって、あの戦争の罪悪と教訓を完全に回避している。
元共同通信編集委員の中村明氏は「日本の統治層が敗戦を認めようとしないのは、戦争責任の追及という問題がもたらされること、特に裕仁天皇とその腹心の戦争責任に波及することを懸念してのことだ。敗戦、降伏を『終戦』と言いなすことは、最終的に洗脳となった」と分析した。
沖松さんは「日本は当時一貫して誤った歴史観の中で敗戦を迎えた。国の指導層であれ一般民衆であれ、敗戦の根本的原因を本当に認識することはなかった。多くの人は敗戦を遺憾と思うだけで、日本がなぜアジア各国に甚大な損害をもたらす侵略戦争を発動し、最終的に敗れたのかについては正しい知識がなく、徹底的に追究しようともしなかった。戦争体験のある元兵士を含め多くの日本人は、いまだに日本が米国に負けたことだけを認め、中国の戦場でも敗者だったことは認めない」と指摘した。
「8月15日が一体何を意味するのかを、日本人一人一人が改めて問いただすべきだ」。沖松さんの表情は再び重々しくなった。(編集NA)
「人民網日本語版」2014年8月15日