【入城式】広場に積もった死体の山
三谷老人は、海軍の冬服を着た写真を取り出し、語り続けた。「12月16日夜、翌日入城式に参加せよとの命令が来た。参戦してから2カ月以上経つが、足が泥で汚れていない。岸に上がって式典に参加できると聞いて、みんなハイキングにでも行くような気持ちだった」
埠頭からユウ江門までの道は瓦礫だった。南京占領から4日経って、衣服や死体が町中に散乱していた。「中山北路付近の広場には、あちらこちらに死体の山が積み上がっていた。死体の山は一つで死体が5、60体はありそうで、地上にも血が凝固していた。死者の多くは老人や女性で、子どももおり、すぐに一般市民であることがわかった。刀で刺されて死んだらしいのもいれば、首が落とされたのもあった。裸の死体もあったし、手が後ろで縛られているのもあった。酷くて見ていられなかった」。三谷老人はそう言って目を閉じた。
「中山北路だけがこうだったわけでなく、南京全体が地獄だったはずだ。陸軍は恥知らずで、やりすぎた!」 写真を握る三谷老人の両手が震え始めた。「町全体が生気を失って、死んだように静かだった。鳥さえ見なかった。日本兵以外には、日本国旗を持った中国人が時折通った。日本国旗を持っていないと殺されるからだ」。写真を置いて、三谷老人はしばし黙った。
【長江べり】機銃掃射で惨殺
軍艦に戻った三谷老人は翌日、さらに恐ろしい情景を見ることになった。「12月18日午後、軍艦のブリッジで見張りをしていると、下関の南岸から機関銃の銃声が聞こえてきた。悲鳴も時々聞こえた。軍艦は岸から500メートルほど離れていた。望遠鏡で見ると、中国人が一組ずつ、銃声と一緒に倒れる。映画のスローモーションを見ているようだった」
三谷氏はその後数日、朝から晩まで、一群一群の中国人が下関江の川原でまとめて虐殺されるのを見ることになった。「トラックで20人、時には30人もいっぺんに川原に連れて来て、機銃掃射する。ダダダッ、ダダダッ」。老人が機関銃の音を真似る。
恐ろしい悲鳴が機関銃の音にまじって響きわたり、数十秒してから静かになる。静かになったと思ったらまた響き始める。「南京を離れたのは12月25日だが、それまで下関の岸では毎日こうだった」。長江は当時、渇水期に入っており、水位が下がっていた。「殺された後、一部の死体は泥に埋まって、一部の死体は岸辺に重なっていた。日本兵が中国人に死体を回収させているのも見た。穴を掘って埋めたり、川に投げ入れたりしていた」。三谷老人は投げる動作をしてみせた。
【専門家】証言は史実と符合
中国侵略日本軍南京大虐殺史研究会顧問で江蘇省社会科学院の研究員を務める孫宅巍氏によると、南京下関は、中国侵略日本軍の虐殺と暴行が集中した地の一つで、この一帯の石炭港、魚雷営、中山埠頭、草鞋峡などの地では大規模な集団虐殺が起こっている。三穀氏の証言は、日本軍の屠殺の時間から地点、方法、さらには死体処理の方法に至るまで、既存の南京大虐殺の史実と符合しており、重要な史料的価値を持っている。