(二)被害者として
三谷氏はこうして南京大虐殺の真相を目撃したが、沈黙を強いられることになった。休暇をもらって正月を日本で過ごすことにした三谷氏は、南京で見たことを誰にも話してはならないという厳命を受けた。その後、数十年にわたって、三谷氏は南京での見聞を口にしなかったという。
戦後、故郷に帰った三谷氏は、自分が何もできなくなっていることに気付いた。家は農村にあったが、農作業には小さい頃からなじみがなく、最初から覚えるのは困難だった。町に出て運を試してみようともしたが、仕事は容易に見つからなかった。三谷氏は自分も、日本が発動した侵略戦争の被害者ではないかと思っている。「戦争のせいで学業を続けられなかった。実家の愛媛も爆撃を受け、故郷を失った。戦争が嫌になった」
やっとの思いで仕事を見つけ、治安維持の補助の職に就いたが、収監された容疑者にこっそり新聞を差し入れたのが見つかり、すぐに解雇された。生計を立てるため、京都で日雇い労働に就いた。当時住んでいた家は風が吹き込み、雨も漏った。1960年の台風で屋根が飛ばされ、家ごとなくなってしまった。住む場所を失った三谷氏は大阪に流れ着いた。「大阪では何でもやった。臨時雇いもやったし、米も売ったし、牛を殺したこともある。流浪の生活は苦しかった」
三谷氏は結局、大阪のある病院で仕事を見つけ、やっと安定した生活を手に入れ、定年まで働いた。三谷氏の住む団地は質素で、少し窮屈にも感じられる。政府の支援で建てられた社会保障用の団地だという。
(三)反省者として
三谷老人は95歳と高齢だが、はっきりとした声で、考えもしっかりしている。軍国主義教育は、三谷青年と同年代の仲間を戦場に送った。日本は歴史を認め、真に反省してこそ、許しを得ることができるし、永遠の平和を得ることができると、三谷氏は信じている。
▽小さい頃から軍国主義教育
「天皇のために命を捧げることは最高の栄光だという教育を私たちは子どもの頃から受けた」。三谷老人が学生時代の写真を取る。当時、学校の開始と終了の合図には軍のラッパが使われていた。遊ぶ時には、生徒の一方が中国軍、もう一方が日本軍の役を演じて、「日本側」の子どもが「中国人を皆殺しにしろ」と叫んだりもした。
三谷老人が歌を歌ってみせた。「『廟行鎮の軍歌』(正式名『爆弾三勇士の歌』)といって、当時の学生は皆歌えた歌だ。『一二八事変』(第一次上海事変)中、日本の3人の兵士が爆弾を抱いて、中国軍が守っていた上海の廟行鎮の陣地に飛び込み、部隊のために命を捨てて攻撃の道を開いたという話を歌ったものだ」。当時の学校は、こうしたエピソードで生徒を小さい頃から洗脳し、軍国主義の教育を行っていた。「早く大きくなって天皇に忠誠を尽くしたいと思っていて、18歳で海軍に入った」
戦争の末期、三谷氏は海軍航空兵の教官となっていた。三谷老人は身を乗り出し、航空服に身を包んだ写真を取り上げる。「これは北海道で撮ったものだ。葬式用の写真だ」。三谷氏の多くの教え子は「神風特攻隊」に参加し、自爆攻撃で命を失った。当時は、天皇のために戦死するほど光栄なことはなかった。教官だった三谷氏は戦場に行くことはなかったが、犠牲となる準備はできていた。