日本の高齢化は深刻で、データによると、日本人の8人に1人が75歳以上となっている。またある調査によると、日本企業の60%が労働力不足を感じている。人民網が伝えた。
60年代末生まれ・西安出身の馬艶霞さんは、高校を卒業後、紡織工場に就職した。馬さんはこう当時を振り返る。「工場で十数年間働いたが、1999年当時の1ヶ月の賃金は400元。仕事は無味乾燥で、全く稼げなかった」。そんな時、彼女は親戚から日本で出稼ぎの話があることを聞き、一念発起して約半月ほどの日本語の勉強を経て、面接を受けることになった。結果、面接では基本的な挨拶などを聞かれただけで、合格した。
馬さんは3年間の契約をかわし、1999年から2002年まで日本で就労し、3年間、毎日10時間以上の労働に従事した。言葉もまともに話せない中で、とても苦労したという。勤務時間が終わった後も、毎日5時間ほど日本語を勉強し続けた。
馬さんは「日本では縫製の研修を受け、工場で働いた。同じ工場で働くのでも、中国とは全く違う」と振り返る。馬さんによると、中国の工場では毎日の実際の労働時間は2~3時間程度で、残りの時間は適当にやり過ごしていたという。しかし日本ではすべての仕事がラインになっているため、労働者が手を止めることは許されず、黙々と仕事をこなすしかなかった。ただ残業代はきちんと支給されたため、文句はなかったという。
大変ではあったが、給料は馬さんを満足させるものであった。当時の為替レートで計算すると、毎月8000元前後の給料をもらっていたという。「自分の生活費と中国への渡航費をのぞいても、帰国の際には22万元持ち帰ることができた。これは2002年当時としてはかなり大きな額で、西安では、家を購入することができた。もしずっと西安にとどまっていたら、30年かかっても同じ額を稼げたかわからない」と馬さん。
このお金は彼女の人生最大の資本金となった。「帰国後すぐに9万元で家を購入し、殘りのお金は資産運用にまわし、外国為替や株式を購入した。2007年の上げ相場にも運よく乗れて、2013年にはもう1軒家を購入した」。
「海外に出たことの最大の収穫は、人生が一変したこと」と馬さんは言う。馬さんと昔一緒に工場で働いていた人は、今でも毎月2000元ほどの給料しかもらえていないが、馬さんは今、人材派遣会社で日本語トレーナーをやっており、給料は以前の同僚の数倍になるという。「最大の変化は生活圏が大きく変わったこと」と馬さんは感慨深げに語った。(編集YW)
「人民網日本語版」2015年3月21日