日本の博物館、米軍捕虜の生体解剖の罪証を展示

日本の博物館、米軍捕虜の生体解剖の罪証を展示。 福岡県で4日、ある博物館が一般開放された。この博物館の展示品には、日本人教授が1945年に米軍捕虜(搭乗員)の生体解剖を行った罪証が含まれ、特に注目されている…

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発信時間: 2015-04-07 14:27:56 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

福岡県で4日、ある博物館が一般開放された。この博物館の展示品には、日本人教授が1945年に米軍捕虜(搭乗員)の生体解剖を行った罪証が含まれ、特に注目されている。

九州大学は第二次大戦中に犯したこの罪をひた隠しにし、公の場でこの話題を回避していた。しかし同校の数名の教授は先ほど開かれた会議で、同校の歴史上の「暗いページ」を正視することで意見を一致させた。

【驚くべき罪が明らかに】

米軍のB29爆撃機が1945年、福岡県の上空で撃墜され、複数の米軍搭乗員が捕虜になった。その当時、何名の米軍搭乗員が捕虜になったかは、歴史の謎に包まれている。しかし九州大学医学部の教授が、そのうち8名を生体解剖していたことが確認されている。

米軍搭乗員の解剖に加わった日本人教授はその後、「(米軍の)戦犯は私たちが白衣を着ているのを見て、私たちが医師であることを意識した。治療を受けられると思い、警戒を解き、もがくこともなかった。自分が生きたまま解剖にかけられるとは、夢にも思わなかっただろう」と振り返っている。

一部の資料によると、ある米軍搭乗員は微笑みながら看護師に対して、「ありがとう」と言ったという。

九州大学医学部の複数の教授はいわゆる医学試験の中で、これらの米軍搭乗員の血管に薄めた海水を注入し、肺やその他の臓器を切除したりするなどして、生存期間を観察しようとした。また学生たちに「注意事項」や「要点」を解説した。8名の米軍搭乗員は、全員死亡した。

【米国の態度が逆転】

連合軍は第二次大戦後、東京、横浜、マニラなどで法廷を開き、日本人戦犯の審判を行った。30人の日本人が、生体解剖、人体の臓器の切除、米軍の捕虜の内臓の食用といった罪により、1948年3月11日に横浜の裁判所で裁きを受けた。

米ボルティモア・サン紙によると、この30人のうち23人の罪が認められた。5人が死刑に、4人が無期懲役になり、14人には軽い刑罰が課された。

しかし同紙によると、米国の第二次大戦の罪を追究する態度には、1950年6月の朝鮮戦争勃発によって逆転が生じたという。

連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーは1950年9月、これらの日本人戦犯に対する刑罰の減免を促した。この数十人の日本人戦犯は1958年に全員釈放され、死刑は執行されなかった。

【歴史の直視を促す】

九州大学は長年に渡り第二次大戦中に犯したこの罪をひた隠しにし、公の場でこの話題を回避していた。日本国内の多くの人がこれに反感を示し、歴史を直視すべきとした。

生体解剖に加わったある日本人教授は、戦後自ら命を断った。九州大学の14人の教職員は戦時中の罪により、無期懲役や死刑などの判決が下された。

作家の遠藤周作はこの闇に包まれた歴史をモデルにし、1957年に『海と毒薬』を発表し、新潮社文学賞、毎日出版文化賞を受賞した。同作品の映画版は、1986年に日本で上映された。

九州大学医学部の複数の教授は今年3月の会議で、同校はこの暗い歴史を避け続けるべきではないということで意見を一致させた。九州大学は複数の罪証を展示品として、新たに開放される博物館内で一般公開することを決定した。

 

「中国網日本語版(チャイナネット)」 2015年4月7日

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