1945年から70年が経過した。日本はその間、敗戦から復興、ピークへの到達、ゆっくりとした衰退というプロセスをたどってきた。日本社会の戦争への態度はそれぞれの段階で微妙に変化し、そうした変化は出版物や映画などにも反映されてきた。30年前から40年前の日本の戦争映画には、反戦や反省の意識が満ちていた。だが現在の第二次大戦を扱った映画は、日本の軍人の武勇に焦点を当てるだけで、戦争の本質は語ろうとしないものばかりである。日本社会の右傾化の傾向はこうした点にも表れている。日本は第二次大戦の歴史を根本的には反省できてはいない。台湾地区の「中国時報」が伝えた。
政治目標を達成できなければ敗北
70年前、日本は敗北を喫した。だが日本国民の間では、日本は中国に敗れたのではなく、米国に敗れたのだという見方が強い。その失敗の原因も、対米開戦の判断ミスや武器開発の遅れなど技術的に解釈されている。日本が敗戦の原因をそのように捉えるならば、日本は新たな敗北を余儀なくされることになるだろう。
日本は中国で戦争に負けなかったか。確かに1945年の終戦時、中国南西部で中国軍と米軍の連合反撃を受けていたほかは、中国に展開していた日本の占領軍の編制はほとんど変わらず、戦闘力も保たれ、敗軍とは見えなかったかもしれない。だが問題は、何を勝利と呼び、何を敗北と呼ぶかである。この両者の定義が、日本でははっきりと認識されていないように見える。
戦争は政治的矛盾の爆発である。戦争発動の目的は土地の占領だけにあるのではなく、政治的目標の貫徹にこそある。戦争がその政治的目標を達成できず、その目標を弱めることを強いられるならば、その戦争はすでに失敗である。戦争の勝利と敗北とはそういうことである。
1937年の盧溝橋事変勃発後、日本軍部は不拡大の方針を取り、まずは満州の工業力を蓄えてから、中国への侵略戦争を進めようと考えた。戦争の最初の年、日本は華北や華東、北京地区、上海地区などで猛攻をかけ、中国の軍隊は敗退し続けた。中国の軍隊の配置には多くの混乱が見られ、上海や南京での撤退など残念な現象も見られた。だが総じて言えば、戦争の場所や時期、リズムを決めていたのは中国人であり、日本軍は、中国人が企図した長期戦へと引きこまれたと捉えることができる。
日本軍の短期的な戦術にも弱点はあった。例えば南京戦役後、磯谷師団は、南からの部隊の北上を待たずに単独で南下し、台児荘でほとんど全滅の敗北を喫した。戦争末期の「一号作戦」では、南北の鉄道が開通されたものの、兵力が足りず、四川に入ることはできなかった。湖南と湖北の両地では、旧日本軍は7年近くにわたって中国軍と対峙したが、戦果を上げることはできなかった。
敗北の本当の原因は侵略戦争の発動