だがこの長期にわたって続いた大爆撃も、中国人民の抗戦の意志を押しつぶすことはなかった。重慶抗戦遺跡博物館の銭峰・副館長は、旧日本軍の爆撃が予期していた効果を上げられなかったのには、防空壕が重要な役割を果たしたと指摘する。
1994年に出版された「重慶市防空誌」は、重慶の防空壕の建設過程を次のように記録している。「1937年の『七七事変』(盧溝橋事件)後、重慶は防空工事を開始した。防空壕は最初、簡単な穴や堀にすぎなかったが、旧日本軍の空襲が拡大した1938年から国民政府は防空建設を加速することとなった」
「渝中半島の多くの山には防空壕が築かれた。防空壕の間は相互に通じており、多くの出入口が置かれた」。重慶三峡博物館の張栄祥・副館長によると、抗日戦争終結時の重慶の都市人口は100万人前後だったが、収容人数60万人に及ぶ防空壕が大爆撃からの避難場所を市民に与えていた。
安全保護のほか、防空壕は、生産による救国という重要な役割も果たしていた。「当時は多くの工場が作業場を防空壕に移していた。兵器工場も多くあり、防空壕内で夜を徹しての生産が行われ、前線の抗日戦力に銃砲と弾薬を提供した」と、重慶巴人博物館の袁文革館長は語る。
重慶渝中半島にある鵝公岩には70年余り前、「兵工署第1兵工廠」があった。歩兵銃と砲弾が主に生産され、1700台余りの機械と約5000人の労働者を有していた。第1兵工廠は116個の防空壕を持ち、そのうち107個が生産に使われていた。これらの防空壕の深さは30メートルから500メートルとまちまちで、壕と壕の間は相互に連結され、生産上の運輸や分散に便利にできていた。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2015年7月20日