本当の「普通の国」とは何か。日本はどうすれば本当の「普通の国」となれるのか。こうした問題は、細かく考える必要のある、カギとなる問題である。
第一に、日本が本当の「普通の国」であるならば、自国の過去の誤った歴史に対し、明晰で理性的な、戦略的視野を備えた、正確な認識を持たなければならない。この正確な認識には、▽第2次大戦の侵略の歴史は日本が発端となったもので、侵略戦争は誤ったものだった、▽侵略戦争は、アジアの被害国と罪なき人々に、言葉では言い尽くせない苦難と悲しみを与えた、▽この侵略戦争には正義はなく、侵略戦争の張本人を美化しその罪をごまかすような言動はあってはならない――などが含まえる。
第二に、日本が本当の「普通の国」であるならば、侵略戦争の罪の責任を進んで担わなければならず、侵略戦争の責任を回避しようとしてはならない。日本が侵略戦争を計画・発動したのならば、侵略戦争がもたらしたあらゆる責任を進んで負わなければならない。侵略戦争の責任を回避しようとするあらゆる言動は、「普通の国」から起こるべき普通の言動とは言えない。「戦争責任は日本だけにあるのではない」「日本はあの戦争のいかなる責任も負う必要はない」などといったでたらめな言論は、「普通の国」という基準からははるかに遠い。
第三に、日本が本当の「普通の国」であるならば、第2次大戦後に形成された国際秩序や世界のメカニズム、枠組を尊重しなければならない。第2次大戦後の国際秩序とこれを土台として築かれた一連の国際的なメカニズムや枠組は、「血と火」による惨烈な代価を支払って苦難の中で形成されたものであり、日本右翼勢力が言うような「敗戦国に対する戦勝国の体制」などではない。第2次大戦後の国際秩序は、第2次大戦後の国際社会が気をつけて守っていくべきものであり、この国際秩序を中傷しこれと衝突する言動はあってはならない。第2次大戦後の国際秩序を中傷しこれと衝突する言動は、第2次大戦で命を失った無数の罪なき霊への不敬であり、第2次大戦の侵略戦争を許容するということを意味する。日本の右翼勢力にとっては、「極東国際軍事裁判」における日本の第2次大戦の戦犯に対する審判は、敗戦国に対する戦勝国の不当な審判であり、戦勝国によって操られた茶番である。また戦犯は、責任を負う必要はないという。戦争は国家の行為であり、公職にある個人は国際法上では責任を負わないからだという。こうした「敗戦国に対する戦勝国の不当な審判」「戦犯に責任はない」などのでたらめな議論は本質的に、戦犯から罪を取り除き、「国家の行為」として戦犯の侵略戦争発動の責任を回避するためのもので、実際には虚偽に満ちた、公正さを欠いたものである。