空挺作戦は第2次大戦中、その威力を見せつけた。この間、世界の列強は相次いで空挺兵を設け、日本も1940年、空挺部隊を設立した。
だが当時の日本の空挺部隊は、陸海軍間の矛盾の余波を受け、どうしようもない渦に巻き込まれてのろのろと成長するほかなかった。設立してすぐに二つに分割され、陸軍航空兵と海軍陸戦隊に属するようになった。旧日本軍の空挺部隊は重視を欠き、「落下傘で飛べる歩兵」程度に考えられ、その訓練は長期にわたり、塔からの降下など初歩的な基礎課目にとどまり、兵士の評価も歩兵の射撃や刺殺など旧態依然としたものだった。
驚くべきことに、旧日本軍の当初の空挺訓練は、朝日新聞社の提供した米軍の空挺兵の写真を参考に遊具施設を用いて行われたという。「猫を見て虎を描く」ようなこの訓練状態が半年以上続き、1941年2月末になってやっと、初めての降下を成功させた。旧日本軍空挺部隊は、訓練がなっておらず、軍事理論が古く、装備が後れていただけでなく、隊員の能力もあまり高くなく、「最良の飛行士は陸攻部隊(陸軍航空兵)に行き、最良の兵士は海軍に行き、残りが落下傘部隊になる」と言われたという。
1941年9月にドイツの空挺装備を得てようやく、旧日本軍の空挺兵は空中訓練を開始した。だがドイツ人顧問が驚いたのは、エリートからなるはずの日本空挺部隊がとりわけ「愚か」に見えたことだという。多くの人が高所恐怖やその他の心理的な抵抗感を持ち、訓練はしばしば、事故の頻発で一時停止を余儀なくされた。空中訓練の際、空挺部隊に配属された旧日本軍の経験の浅い飛行員が、落下傘兵すべてを誤って海上に投下してしまい、数十人が落下傘を離脱できず、溺死したこともあった。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2017年2月13日