戦争中、約6700人が島で働き、毒ガスを24時間製造していた。この工場は極秘であり、当時の日本地図にも載っていなかった。
映像キャプチャー(央視網)
藤本さんは今も猛毒ガス「ルイサイト」を製造するための科学方程式を覚えているという。
「この方程式は絶対に忘れない。生きていくために学んだものだったが、最終的に中国人を殺すために毒ガスを作り、正真正銘の罪人になっていた」と藤本さん。
岡田黎子さん(央視網映像キャプチャー)
87歳の岡田黎子さんは元美術教師である。第二次世界大戦末期、まだ学生だった彼女は大久野島で9カ月間働いた。当時、真相を知らない1000人以上の学生が島に行かされ、毒ガスの原料が入ったドラム缶を運んでいた。彼女はその歴史を次世代に伝えるため、この時の経験を絵にした。
岡田黎子さんの絵(央視網映像キャプチャー)
「絶対に忘れてはいけない。毒ガスの脅威はまだなくなっていないのだから。毒物は簡単に使用できる安い核兵器と言える。だから、これらの事実を全世界に伝えなければいけない」と、岡田さんはドキュメンタリーの中で語っている。