民主の崩壊:日本政治の右翼化が浮き彫りにするもの

民主の崩壊:日本政治の右翼化が浮き彫りにするもの。自民党などの右翼勢力と互角に戦うことのできる左翼勢力が日本で見つからない今、議会民主制の力の均衡という原理の学術的な視点から見れば、日本政府の基本的な政策の方向性は、絶対的な優位を占める政治集団による自身の利益の最大化の追求の産物になるしかない…

タグ:右翼化 自由主義 憲法 革新派

発信時間:2017-08-22 10:51:49 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

 日本の右翼化が政治的な現実となった今日、根本的な問題と言えるのは、日本の「左翼」勢力はどこにいるのかということである。(文:文豊・南京大学歴史学院博士課程大学院生)

 第2次大戦前の日本には「左翼思想」の社会的な基盤はなかった。19世紀末には、西側の各種の社会的な思想が浸透し、左翼政治団体や左翼政党が生まれていた。こうした組織は、マルクス主義の代表的な理論を導入しただけでなく、中国革命を後押しすることともなった。だが西側の思想を導入しただけでは、東アジアの島国にそれが根付くことにはならなかった。

 自由民権を代表とする自由主義の政治思想が芽生え始めた時、日本右翼の代表の一人である、甲午戦争(日清戦争)の総計画者である伊藤博文は、アメとムチの両方を使ってその弾圧をはかった。伊藤の長州の同郷である大軍閥の山県有朋はさらに、日本近代地方体制の設計のために画策し、政党間の争いが国家の根幹を動揺させるのを防ぐという建て前で、民主の防波提を築いた。

 「過激」な共産主義は言うに及ばず、西欧各国の自由主義思想でさえ、彼らは厳しく取り締まった。

 1889年にまず「欽定憲法」を作り、1890年に第一回議会を召集し、欽定された憲法を国民の代表らに「恩賜」するというのが、近代日本が西側の憲政を模倣した道だった。そうは言っても、日本にも28年後、本当の意味での初の政党内閣(政友会内閣)が誕生した。これによって「大正デモクラシー」(大正民主)の時代が始まった。


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