孫沈清さんと生徒ら(撮影・龍宇丹)。
80代の孫沈清さんは、教師用ノートや日本語の教材、マーカー、老眼鏡を用意し、午前9時に自宅を出て、タクシーで1キロ離れた所にある雲南省昆明市五華区新聞里社区に向かった。ここ半年、毎週土曜日午前に、孫さんは無料で若者たちに日本語を教えている。雲南網が報じた。
日本語もネイティブレベル
レッスン前の短い交流を通して、孫さんの日本語はネイティブレベルであることが分かった。清(1636-1912年)の末期に起きた日露戦争後、孫さんは母方の祖父母と共に、日本から中国の旅順へ移住した。「私の母親は中国で生まれた日本人で、父親は日本で生まれた中国人。私は3人姉妹の一番上で、妹が2人いる。家では日本語を話し、学校では中国語を話していた」と孫さん。日本語のレッスンで、孫さんは中国語と日本語をうまく織り交ぜながら説明し、時には両国の文化の似ているところや違いなども話している。
「外国語を学ぶのは大変なことで、やり続けることが必要。1度レッスンを休むと、次のレッスンについていけず、休むことが多いと全くついていけなくなってしまう」。孫さんは昨年9月からボランティアで日本語を教えるようになり、これまでに計27人が申し込んだが、毎週のようにレッスンを受けに来ているのは、現時点で10人にも満たないという。
丹■(■は女へんに尼、26)さんにとって、日本語レベルが高く、日本の文化にも精通している先生に日本語を無料で習うことができるというのはまたとない機会だ。「外国語を学ぼうと思うと、少なくとも数千元(1元は約16.8円)かかってしまう。それに、こんなにいい先生と出会うのも難しい」と話す丹さんは、この半年間ほぼ欠かさずに毎週レッスンを受けている。それは、「初級の日本語試験に合格したら、日本に旅行に行く」という目標があるからだという。
日本語教師が副業から本職に
「日本語教師というのは、元々は本職ではなかったが、今ではほぼそれに近いものがある」という孫さんは、1957年に南京大学に入学した。「日本の気象学はとても発達しているし、あなたは日本語が話せる女性なんだから、気象について学んでみたらどうだろうか」。専門学部を決める前に母親に言われたこの言葉が孫さんのその後の人生を大きく変えたという。5年後に大学を卒業した孫さんは、新疆維吾爾(ウイグル)自治区烏魯木斉(ウルムチ)市で、気象関係の仕事をするようになった。
1980-90年代、改革開放(78年)の春風が中国全土に吹き、多くの人が海外の最先端技術を学ぶことを好み、海を隔てた隣国の日本を学ぶ目標にした人も多かった。「当時、日本語ブームが巻き起こった。私が日本語を話せることを知った友人に勧められて、日本語の学習クラスを開き、夜に学生に教えていた。私にとって日本語は母語に近いが、文法に関する知識は十分でなかった。仕事の余暇を使って資料を集め、文法を勉強し、夜に日本語を教えていた」と孫さん。
55歳で退職してからの15年間、孫さんにとって、日本語教師が副業から本職へと変わった。そして、新疆大学や新疆師範大学で日本語を教え、烏魯木斉科学技術日本語協会の理事長も務めた。一人でも多くの人に日本語を学んでもらおうと、2001年からは家族の応援の下、自費でサイト「孫沈清日本語教室」を立ち上げた。
せっかくの日本語を無駄にできない
11年、70代だった孫さんは夫と一緒に昆明に移住し、長男と一緒に暮らし始めた。
孫さんは取材に対して、「子供や孫たちは誰も日本語を勉強したがらない。でも、せっかく日本語ができるのだから無駄にしたくない。勉強したいという人が一人でもいれば、私は教え続ける。私たち夫婦には両方年金があり、経済的には困っていない。体もまだ元気で、昨年、新聞里社区でボランティアの日本語レッスンを始めると聞いて、すぐに手を挙げて引き受けた」と話した。(編集KN)
「人民網日本語版」2018年3月23日