約20人の生存者が真珠湾に集まり、77年前の日本の襲撃により命を落とした数千人を偲んだ。
彼らは政府高官、現役軍人、一般からの代表者と共に、現地時間午前7時55分(1941年12月7日に本軍が空襲を開始した時間)に黙祷を捧げた。
空襲が始まった当時、18歳で海軍2等兵だったジョン・マスルス氏はフォード島の食堂を出たばかりで、戦艦ウェストバージニアで働く友人に会いに行こうとしていた。
彼は「彼らは負傷し、爆弾と砲弾が水中で爆発していた。重傷やその他の理由により泳げない人を陸に上げようと助けに行った」と振り返る。
カリフォルニア州マウンテンビューからハワイの追悼式に出席したマスルス氏は、負傷者を食堂まで背負って運び、軍営から探してきたマットに寝かせたことを覚えている。
空母カーティスで就役していたロバート・フェルナンデス氏は、驚き呆れたと振り返る。「少し緊張し、怖かった。私は当時17歳で、世界を見たかった。しかし私が巻き込まれたのは、戦争だった」
この94歳の高齢者は毎年、カリフォルニア州ストックトンからハワイを訪れ、年に一度の追悼式に出席する。
米インド太平洋軍のフィリップ・ デービッドソン司令官は、米国はあの日の重い犠牲を永遠に忘れないと述べた。また21隻が大破・沈没し、170機が破壊され、軍人と一般人を含む2400人以上が死亡したと指摘した。
「これらの損失を被ったが、米国の精神が揺るぐことはなかった。これは米国のに闘志をみなぎらせた」
生存者は高齢化しこの世を去るにつれ、有名人扱いされるようになった。彼らはサイン、記念撮影、自撮りを求められることがあるという。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2018年12月10日