冬になり、侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館(南京大虐殺記念館)の冷え込みが厳しくなった。南京大虐殺の生存者である傅兆増さん(83)は白髪頭で、足取りもおぼつかないが、南京大虐殺の状況を語る言葉ははっきりしている。
傅さんは震える両手でズボンをまくった。そのやせ細った左足には、82年前に撃たれた銃弾の傷跡が残っている。「当時私はわずか1歳だった。これが当時の銃弾が残した傷跡、本物だ」
傅さんは南京大虐殺の発生当時にまだ幼かったが、成長に伴い家族から足の傷について教えてもらった。血なまぐさい戦争の記憶が、彼の記憶に刻み込まれた。
傅さんは年長者や隣人から耳にした、一生に影響を及ぼす災いについて語った。歴史の真相はこうして次の世代へと語り継がれていく。
時は1937年に戻った。傅さんは「日本軍が南京を侵略した2日目、南京は一夜にして火の海になり、あちこちで火の手が上がっていた。母は最初ただの火事だと思い、私を抱えて逃げ出した」と述べ、次のように続けた。
家は裁縫の仕事をしていた。両親は家で仕事中で、日本人による放火をまったく知らなかった。そこで母とおばは私を連れて大胆に外に出た。ところが広場に行く途中、日本兵が路地から出てきた。日本兵は私たちを見ると追いかけ、銃撃を開始した。銃弾は私と母の間を通過し、私の足に命中した。
母は私の血が流れる足を押さえながら、おばと共に斜め向かいの理髪店に逃げた。するとおばが日本兵の銃弾に当たり、その場で死亡した。母は私を連れて必死で逃げ、私を抱えながら民家を通り過ぎ、ついに自宅の裏庭にたどり着いた。塀を飛び越え人目につかないよう、塀を蹴り穴を開け、やっとのことで穴をくぐり家に入った。
母は一路、日本兵が理髪店の主人を刺殺する様子、それから通りの放火、殺戮、拉致、略奪を目にした。その後聞いた話だが、母とおばが私を連れて行った広場は死体ばかりで、非常に凄惨な光景だった。広さ3、4ムーの広場に数百人の死体が並べられていた。
傅さんの一家はそれから間もなく、南京山西路の難民区に避難し、この歴史的な災いの生存者になった。ところが戦争の記憶と自身の傷により、傅さんは命をいっそう惜しむようになった。「この歴史があるため、私は現在の衣食住と満ち足りた、孫を抱くことのできる喜びをいっそう惜しんでいる」
「両親からはよく、命は非常に貴重であると教わった。特に私は戦争を経験しているので、何があろうとも命を惜しむようにと」傅さんは自分の傷について言及を避けようとする素振りを見せなかった。彼はこの一生残る傷から、粘り強く生きることを教わった。またこの傷から命の尊さ、平和の意義について常に気付かされているという。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2019年12月12日