しかし「敵基地攻撃能力」が日本で大きな物議を醸していることが問題だ。これは主に、平和憲法の9条に抵触するか否かだ。日本政府の説によると、日本は主権国として自衛権を持っており、自衛用の「必要最小限度の実力」は憲法でも認められているという。そこで「必要最小限度」が大きな袋になり、なんでも詰め込めるようになった。軍事力の発展、集団的自衛権の行使容認などは、日本政府から「必要最小限度の範囲内」と解釈された。「敵基地攻撃能力」についてもそうで、1956年の鳩山内閣時代の解釈は「座して死を待つのが憲法の主旨とはどうしても考えられない」「その他の手段がなければ、敵側のミサイル基地を攻撃しても法理的には自衛になる」だった。日本政府はそのため、このような能力の保有は違憲ではなく、関連能力の建設も「必要最小限度の範囲内」に収まるとした。しかし事実上、このような行為は何と言っても攻撃であり、いわゆる「必要最小限度」に収めるのは無理があり、自他を騙している。そのため日本国内で大きな物議を醸している。
攻撃される前の「敵基地攻撃」も国際法にもとる。先制攻撃は国際法の基本原則にもとる行為だ。日本は「敵基地攻撃」を「先制攻撃」ではないと何度も潔白を装っている。例えば日本政府は敵のミサイルが立てられ、燃料注入が始まったりすれば攻撃の意図があると判断し、その場合に敵のミサイル基地を攻撃した場合は「自衛」であるとしている。しかし常識的に言えば、「先制攻撃」は敵が攻撃する前に攻撃することだ。日本は相手の攻撃の意図を「自衛」の理由にしようとしているが、これは主観的な感覚と印象に基づくもので説得力がない。日本政府が打ち出したいわゆる客観的な基準も論拠が弱い。そのため相手に攻撃の意図があるか判断できない状況で先に手を出せば、それは実質的には先制攻撃だ。
日本政府は「敵基地攻撃能力」の構築推進を試みているが、これはこの禁区を突破してしまえば、自衛隊が「できる」範囲がさらに拡大するからだ。日本政府の論理によると、「攻撃は最大の防御なり」と解釈でき、いわゆる専守防衛がさらに空虚な言葉になる。同時にこれは日本の軍事力の構築のため「大きな余地」を作る。日本はこれにより早期警戒衛星、電子戦機、関連する地上・空中配備型ミサイル、高性能レーダーなどを開発・配備できる。「需要」に基づき一つずつ配備が終われば、日本の「攻撃的な武力」が新たな高みに到達する。
このような主観的な期待と複雑な物議があるため、安倍氏はこの問題について言いよどんでいる。前述の通り、「敵基地攻撃能力」とはとどのつまり先制攻撃のことだ。日本側がこの禁区を突破すれば、「私が攻撃されると判断すれば攻撃する」と対外的に宣言するに等しい。日本政府がこうするのは、表面的には相手を「威嚇」することで自国をより「安全」にするためだが、実際にはパンドラの箱を開く可能性がある。他国が日本への懸念を深め、国家間の信頼性が大きく下がり、地域の安全環境がより不安定になる。その結果、日本もその他の一部の国も安全ではなくなる。(筆者・霍建崗 中国現代国際関係研究院日本研究所副研究員)
「中国網日本語版(チャイナネット)」2020年9月14日