藤田基彦=文・写真提供
1971年7月16日、ホテル予約客の週間予定表を作成していたとき、同僚から「ニクソン大統領が来年の訪中を決定し発表」という臨時ニュースを伝えられた。その瞬間は今でも忘れられない。「あぁ、良かったなぁ!」と一つの時代が動いた感じがした。
翌72年7月7日、田中角栄氏が内閣総理大臣に就任し、中華人民共和国との国交正常化を急ぐとの談話を発表。周恩来総理は、田中首相の政策に歓迎を表明した。
当時の周恩来総理の発言の数々を今でも良く覚えている。特に、「加害者が過去を忘れないようにし、被害者ができるだけ忘れようとする関係になれば、中日両国の将来は明るい」「中国は過去に各国の侵略を受け、莫大な賠償金を支払った。日本は、何年かの国家予算に相当するこの賠償金をロンドンに運び、軍艦を製造したが、米国と英国は賠償金の一部で病院や図書館をつくってくれた。いずれにせよ、中国人民はこの支払いのため、何年も重税に苦しめられた。日本人民にはこの苦しみを経験してほしくない。だから賠償金は請求しない」との発言は印象深かった。
73年から、箱根ホテル小涌園は、国交正常化後初の中国政府派遣代表団となる廖承志・中日友好協会会長が団長の中日友好協会訪日代表団をはじめとして、多岐にわたる各界の代表団を迎えるようになった。代表団は中央政府から徐々に省・市へと広がり、日本側の受け入れも、日中友好4団体(後に7団体)や日本国際貿易促進協会の会員企業、友好交流都市の自治体、外務省、経団連、日本銀行と、ほとんどの企業・団体が中国との友好交流に携わっていた。また大手の商社や企業などには「中国室」が設けられた。
79年4月13日、周恩来総理の令夫人である鄧穎超・全国人民代表大会常務委員会副委員長(当時)を団長とする中国・全人代の訪日代表団一行が、ホテル小涌園に一泊された。団員には、孫平化・中日友好協会秘書長などの常連客もいらっしゃった。訪日のきっかけについて、孫平化氏の『日本との30年—中日友好随想録』にはこう記録されている。
大勢の出迎えに拍手をもって応え、一人一人にあいさつする鄧穎超団長(中央)
「周総理は、中日平和友好条約が締結された暁には、桜の花開く春に、再び日本を訪れたいと表明しており、日本の友人も、周総理が日本を再訪して宿願を果たせるよう願い続け、招請していた。しかし、不幸なことに、この願望はついに実現しなかった。……悔やんでも悔やみきれないこの思いを埋め合わせるために、(令夫人である)鄧穎超女史に日本訪問を招請していた。……周総理のかつての足跡に沿って、まず東京、箱根を訪れ、つぎに京都、嵐山、琵琶湖へ行き、最後に大阪から帰国することにした」
一行が到着されたときには、ちょうど箱根山が桜花らんまんの最高の季節を迎えた。昼食後、鄧穎超団長は桜が咲き誇る庭園を散歩された。
年齢が76歳と聞いていたが、精力的な姿からは想像もできなかった。帰館後、館内の案内を仰せつかった。初めはとても緊張した。約20分間であったが、すぐ隣にいた私は、質問にお答えしているうちに、何年も前から存じ上げているような感じを受け、なぜか安堵感が出てきて緊張がほぐれた。そばにいて大変優しい人柄を感じた。鄧団長は、中国国民から「鄧お母さん」と親しみを込めて呼ばれていると前から聞いていたが、普遍的な母親の雰囲気を持っておられるからだろうと感じた。
夕食の際、鄧団長は自室に日中友好に長年尽力されてきた西園寺公一氏の家族を招かれた。また就寝前に、全団員の部屋を回って一人一人に声を掛けられ、体調は大丈夫か、夕食は楽しめたかどうかなどと聞かれた。お疲れもあったろうかと思うが、自ら行動されるのは敬服の至りだった。
一行が帰国された後、鄧団長から4月26日付の礼状が日本の中国大使館経由で届いた。その中で鄧団長は、「皆様は、貴国の他の友人の方々ともども、心のこもった歓待と、全てにわたって行き届いた心配りで私たちを迎えてくださり、私たちはまるで自分の家にいるような気分でくつろぐことができました。皆様の誠実・真摯かつ深く細やかな情誼は、あの絢爛たる桜の花と同じように、永遠に私たちの記憶にとどまることでしょう」とし、「今回の訪問を通じて私たちは、中日友好の春の如く光に満ちた現状と、輝かしい未来を見てとることができました。私たちは、皆様をはじめ貴国の友人の方々と共に努力を続け、両国の間の友誼を、現在の基礎の上に立って、絶えることなく発展させていきたいと願っております」と語った。
鄧穎超団長による揮毫、「中日友好世世代代傳下去」(中日友好を子々孫々受け継いでいこう)
丁重なる礼状のお言葉、団員全員への気配りに心を打たれた。私は現在76歳、当時の鄧団長の年になるが、あの現役のお姿のエネルギーを私も蓄えたい。
「人民中国」より2023年3月11日