「貴族の息子だった」あるチベット人の物語

japanese.china.org.cn  |  2009-03-09

「貴族の息子だった」あるチベット人の物語。

タグ:「貴族の息子だった」 チベット 民主改革50周年 中国

発信時間:2009-03-09 10:57:22 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

ロボツリン、男性、チベット族、1954年生。父はパラ荘園主のパラ・ザシワンジュ。現在はチベット自治区ギャンズェ県パンチュエロンボ村の農民で、ギャンズェ県の政治協商会常務委員会委員を務めている。

 

ラサからギャンズェに移り住んだ母

私は1954年にギャンズェ県ギャンラ郷パンチュエロンボ村に生まれてから、ずっとここで生活してきました。父のザシワンジュは、もともとパラ荘園の領主で、パラ家は昔、チベットの地方政府の高官に5人も選ばれたことがある由緒ある家柄です。

父は林朴寺に出家していましたが、1937年にギャンズェに戻り、10年余りで今のパラ荘園を作りました。母の家はもともとロカにあり、ラサで戦乱があった18歳頃に、パラ家の財産を運ぶ祖母と一緒にラサからギャンズェにやって来たそうです。その後、荘園を管理する男性との間に子どもをもうけますが、父が荘園を経営するようになり、その男性はロカにある荘園に移動させられて、母との行き来もなくなったようです。

兄弟たちのこと

その後、母は父と一緒に生活するようになり、私たち3人の子どもを生みました。しかし母の身分が低くかったため、私が7歳の時に父は別の女性と結婚し、母は荘園の管理者と結婚させられました。

私たち兄弟3人は貴族の身分を受け継ぐことができませんが、父と度々一緒に生活していたため、衣食住には恵まれていました。私の姉は1954年に中央民族学院に入り、卒業後はシェトンモン県で働き、今は退職してシガズェで家を建てています。

兄はラサに行き、民主改革後、家に戻って農民をしていましたが、1985年に政策が緩やかになった時に国外に父に会いに行ってから会っていません。今は米国で生活しているそうです。私はずっと農業にたずさわり、数年前にギャンズェ県の政治協商委員に、1997年には常務委員に選ばれました。

1958年末頃にラサに行った父は、1959年3月にダライ・ラマと一緒にインドへ亡命し、その後はスイスに住んでいました。戻って来るつもりだったようですが1982年に病気で亡くなり、私と一緒に暮らしていた母も、1991年にこの世を去りました。

 

10部屋ある2階建ての部屋

今、私たちは、もともと奴隷だった人も含め、隣近所の人たちと仲良く付き合っています。以前の対立は当時の制度がもたらしたもので、この家も近所の人たちが手伝ってくれて建て、生活もよくなり、着るものにも食べるものにも不自由はありません。

民主改革前に私たちが住んでいたのは、部屋3つ、倉庫2つの家でした。民主改革後は私たちのような家の出身は領主代理人に決められ、部屋は2部屋しかありませんでした。人民公社の末期には政策が緩み、生活のレベルも少しよくなったこともあって、5つの部屋がある新しい平屋の住宅を建てました。そして1986年には他の人たちと同じように、今住んでいる10の部屋と20本の柱がある2階建ての住宅を建てたのです。

日に日によくなる今の生活。私の家はこの村で特に飛びぬけているわけではありませんが、村のほとんどの人たちの生活は、多くの面で昔の領主の生活レベルを超えています。

「チャイナネット」2009年3月9日

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