才旦卓瑪(ツァイダンジュオマー)さんは、中国で最も有名なチベット族ソプラノ歌手で、中国人でその歌を聞いたことがない人はいないと言っていいほど知られており、褒賞や賞賛を受けている。実は、彼女の幼年時代の生活はそれほど平坦だったわけではなく、牛や羊を放牧し生活を営んでいた。
以下は、才旦卓瑪さんが記者の取材に答えた内容である。
1958年、上海音楽学院は少数民族の芸術人材を養成するために、学生を募集しにチベットに来た。私は声がよいということで異例の合格となった。そのお陰で、レベルの高い学校で音楽を勉強するチャンスに恵まれ、チベットで初めての歌唱家となった。
中国文学芸術界聯合会(以下「文聯」と略称)と初めて接触したのは1960年のことで、私は当時まだ20代の学生だった。その時、文聯から家族のような暖かさを感じとり、芸術に一生涯を捧げる決心を固めた。
1960年、私が雲南省で少数民族の音楽を学んでいたころ、学校から北京の会議に参加する通知を受け取った。当時の私は、どんな会議なのか、どんな人たちが参加するのか、文聯がどんな組織なのか、何も分からなかった。学校の先生からは芸術界の有名人や貢献した芸術家が参加することだけを聞き、私は雲南省代表団の芸術家たちと一緒に北京へ行った。長時間の旅に慣れず、体調が少し悪くなったが、会場に入り芸術家と会うと興奮し、旅の疲れはすっかり吹っ飛んでしまった。
会議期間中、私は同じ上海音楽学院の周小燕先生と同じ部屋に泊まり、周先生は多くの音楽に関する知識を教えてくださり、私にとって大きな利益となった。その後、数人の映画俳優と会うことができ、非常に興奮し、彼らと一緒に文聯の会議に参加したことをこの上なく光栄に思った。
会議では、チベットから来た先輩の芸術家たちと会うこともでき、故郷のことを故郷の言葉で話し、生活の細かいことにも気を配ってもらえ、非常に嬉しかった。その前の1959年の新中国成立10周年を祝う公演で北京を訪れたことがあるからか、多くの方々がチベット族の歌手である私を覚えてくれ、知らない人からも「才旦さん、学校生活はいかがでしょう。上海の生活には慣れましたか」などと声をかけてもらえた。農奴の娘である私が文聯の会議に参加できることはとても有意義なことだと皆が思っていた。彼らと交わした言葉は多くなかったが、私の不慣れや不安をなくしてくれた。私はここで家族のような暖かさを感じ、この大家族の一員になりたいと思った。