■18世紀のフランス、「野蛮」に対立する意味で使用された「文明」
欧州を中心にして見た世界は2つに分かれていた。秩序があり優れた欧州と、半開の国で野蛮な欧州以外の地域。福沢諭吉が指摘する以前から、日本人はすでに、イタリア人イエズス会員・カトリック教会の司祭マテオ・リッチが持ち込んだ世界地図によって、この世界は「中華と四夷(古代中国で中国を中華と呼ぶのに対し、四方の異民族を指して四夷と言った)」という秩序のほかに、新たな秩序、つまり東西や欧亜といった線引きがあることを理解していた。また、日本人は宣教師が自らの故郷を欧州と呼ぶことや、中国や朝鮮、日本がある大陸は「アジア」と呼ばれていることも徐々に理解していった。この理解の基礎の上に、福沢諭吉はかの有名な「脱亜論」という文明の優劣による評価を導入した。これにより、近代日本人は、西洋文明の風が国境を越えてアジアに流れ込めば、古いしきたりに囚われた清国や朝鮮は国家滅亡の運命から逃れられないと見て、清国・朝鮮との間に明確な境界線を引き、2カ国の滅亡の巻き添いになることを避けなければならないというアジア観の基礎を打ち立てた。
福沢諭吉の中国に対する認識は、アリストテレスからヘーゲルに至る思想に基づいたところが大きく、最終的には「アジア的生産様式」を引き合いに出し、「中国の停滞性」を主張した。
簡単に言えば、アジア社会、特に中国社会は土地の私有制度がないことから、大型水利工事施設の建設を基礎とし、国がすべての経済活動を計画準備する専制政治体制を形成している。アジアの専制社会は完全に停滞した状態で、発展する動力を欠いた社会形態であるというものだ。福沢諭吉が提出した「脱亜論」は日本の思想史に対して深く影響を与え、今でも日本の多くの国民が日本のことを、「西洋には属さないが、アジアの独特な文明とも異なる」と考えている。
「脱亜入欧」(後進世界であるアジアを脱し、ヨーロッパ列強の一員となる)の機運が盛り上がった後、表面的にはそれと相反する思想も沸き起こってきた。岡倉天心は「アジアは一つ」とするアジア主義を打ち出し、日本と中国とインドは文明的にも共通性があることを強調した。この2つの見たところ相反する思想はこれ以降も、日清戦争、日露戦争、辛亥革命、十月革命などの大きな歴史的事件において、それぞれの擁護者を引きつけていき、第2次世界大戦において完全に結合する。これが、大東亜共栄圏のイデオロギー、すなわち「満州・中国と同盟し、アジアを統一して、アングロサクソンの世界に対抗しよう」というものだった。これは、「欧州にとって『他者』であるアジアは、帝国主義主導型の世界秩序を打ち破る必要がある。日本はアジアにおいて先に現代化を実現させた盟主であり、他のアジア諸国にもこの使命を遂げさせる義務と能力を持つ」という構想だ。