福沢諭吉が1万円札の上に刷られているのは決して偶然ではない。日本が歴史問題を認めないのも偶然ではない。この二つの事柄はすべて同じ歴史的根源から来ている。これこそが、近代日本の自己定義における主体の欠如なのである。
「犬と鬼 知られざる日本の肖像」(2002年)の作者で米国の日本通と呼ばれるアレックス・カー氏はかつて、中国学を学ぶほうが日本学を学ぶよりも気持ち的に楽しいと語ったことがある。なぜなら、中国人学者は日本人学者と違って「自国の文明の特異性と優越性」を強調したり、それを研究の最終的な帰結点としないからだと述べている。これは、日本の思想が現代化の過程において生み出した、「他者の視点から自分たちを位置づけ、自己評価を行う」という面白い現象にもつながる。実際、福沢諭吉の「脱亜論」であろうと、岡倉天心の「アジア主義」であろうと、背後に隠されているのは他者による観察視点である。
米コーネル大教授の酒井直樹氏は「日本思想という問題―翻訳と主体」という著書の中で以下のように解説している。ある人物がもし内部の視線から自己を観察する場合、自分を特殊だと思うだろうか?自己の特異性を強調するということは、外からの視線で自己を観察していることを表し、これによって観察の主体が消失してしまっていることを示している。自我の主体が崩壊するのに伴い、核心的価値観も喪失される。
日本の歴史認識が世界の形勢の変化に伴い、大きく揺らいできたのは明らかだ。米国の占領時期から冷戦時代にかけては、左翼が勢いを得て、一時は自己批判・反省の機運が高まったこともある。しかし、戦後民主主義の指導的人物である丸山真男や竹内好などの人物が相次いで世を去ると、特に2000年以降に米中関係が日増しに緊張してくると、日本の歴史観は急激に右へと傾いていく。このような揺さぶりが激しく、不安定な歴史観はまさに、核心的価値観の欠如を表している。
現在、500ユーロ紙幣にはグリム兄弟に代わって抽象的な現代建築が印刷されている。欧州憲法の制定や欧州通貨単位ユーロの発行に伴い、第2次世界大戦後の古い体制のままだった欧州は今や、一つの新しい欧州に向け体裁を整え始めている。しかし、福沢諭吉は今もなお1万円札に印刷されており、一代、また一代と日本人の成長と衰退を見つめ続けている。
(人民網日本語版)