[歴史概観]

japanese.china.org.cn  |  2007-07-06

[歴史概観]。

タグ:内蒙古 中国 文化 オルドス

発信時間:2007-07-06 14:10:37 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

内蒙古自治区は長い歴史をもっており、旧石器時代の遺跡である「大窰文化」と「オルドス文化」はこれを裏づけている。内蒙古史上初めて文字の記録を残した古代の遊牧部族は儉狁(けんいん)、匈奴、林胡、楼煩、東胡、匈奴(時代順)で、秦漢時代(前221~220)には匈奴が強大になり、南北朝時代(420~589)になると突厥のハン国(遊牧国家)が勃興した。947年、契丹(キタイ)人により遼が建てられ、中原地方の北宋王朝(960~1127)と対峙した。12世紀になると、モンゴル民族がアルグン川の東に勃興し、それはもと古代東胡系の室葦(しつい)部族の一つであり、唐代(618~907)には「蒙兀(もうこつ、即ちモンゴル)」と呼ばれていた。1206年、テムジン(即ちチンギス・ハン)が「大蒙古国」を樹立した。さらに1271年になると、フビライは中原地方に進出して元王朝(1271~1368)を樹立した。元末、内蒙古地方はモンゴル貴族の割拠によって戦乱がつづき、明代(1368~1644)に入ってから、内蒙古の東部地区が明王朝の設置したウリャンハイ3衛の管轄下にあった。15世紀後半になると、チンギス・ハンの後裔であるダヤン・ハンがふたたびモンゴル全域を統一した。その後、ダヤン・ハンの孫であるアルタン・ハンが強大になり、一度は内蒙古西部全体をその支配下に収めるとともに明王朝と密接な政治・経済の関係をもち、かつ数世代にわたって明王朝から賜った「順義王」を世襲した。17世紀前半になると、東北地方に興った清王朝(1644~1911)の統治者は、全中国統一の過程に先駆けてゴビ砂漠南部のモンゴル各部族を征服し、内蒙古地方の大部分を行政上の6盟49旗に区画し、各旗の貴族(王公)のチャサコ(モンゴル語で「管理者」の意。各旗の長をいう)にその統治を世襲させ、これを「外藩蒙古」と呼んだ。現在のフルンブイル盟のソロン旗、バラグ旗などの8旗と旧チャハル地方の8旗、帰化城のトゥムド旗は「内属蒙古」と呼ばれていた。ゴビ砂漠の南北にあるモンゴル民族の居住地域は清代初期に初めて「内蒙古」「外蒙古」と呼ばれるようになった。「内蒙古」というこの呼称は、これ以後ずっと使用されることとなったのである。19世紀末、清王朝の腐敗・衰微につれて、外蒙古および内蒙古西部は帝政ロシアの勢力範囲となり、内蒙古の東部は日本帝国主義の勢力によって支配されるようになった。民国時代(1912~1949)、とくに1931年の「九・一八事変」(日本帝国主義が中国の東北地方を武力侵略した事変)以降、内蒙古地方の大部分はしだいに日本の植民地になっていった。中国共産党に指導されて、モンゴル族と漢民族の人々は苦難にみちた道を歩み、なみなみならぬ悪戦苦闘のすえ、ついに1947年5月1日、中国最初の民族区域自治を実施する内蒙古自治区を成立させたのである。さらに数年にわたる行政区画の整理により、1956年には現在の内蒙古自治区の行政区域が形成されることになった。

現在の内蒙古自治区には8つの自治区直轄市、4つの盟が含まれている。8つの市はフフホト市、包頭市、烏海(ウハイ)市、赤峰市、通遼市、オルドス市、フルンブイル市、バインニュル市、4つの盟はウランチャブ盟(集寧市)、シリンゴル盟、アルシャ盟、興安盟である。自治区直轄市と盟の下にはさらに旗、県、区が設置されている。自治区の区都はフフホト市で、内蒙古自治区の政治・経済・文化の中心である。

「チャイナネット」2007/07/06

 

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