内蒙古自治区の総面積は118万3000平方キロ。日本の3倍強である。だが、その4分の1は砂漠と荒地。ひとたび大風が吹けば、砂塵が巻き上がる。人が住める土地は少ない。しかし人々は、生態環境を改善するため、この大自然と粘り強く闘っている。 大砂漠に奇跡を起こす 内蒙古のオルドス(鄂爾多斯)市は、黄河が北上し、東に向きを変え、さらに南下して流れている「几」字形の真ん中に位置する。オルドス市の北部には、約2万平方キロもあるクブチ(庫布斉)砂漠が広がっている。オルドス市のハンギン(杭錦)旗は、その40%がこの砂漠の中にある。 ハンギン旗から舗装道路が、クブチ砂漠の中をまっすぐに走っている。道路の両側には大小の砂丘が次々に現れては消えて行く。「これが有名な『砂漠貫通道路』です」とハンギン旗の報道官、韓玉光さんは言った。 この一帯の年間降雨量は280ミリに達しない。砂漠化の最も深刻な地区の一つのである。高さ数十メートルから100メートル以上もある砂丘が至る所にある。砂漠で暮らしている農牧民たちの1人当たりの年間収入は500元(約7500円)に満たない。旗の外の世界と往来する唯一の交通手段は、駱駝と驢馬。生活用品を買うため、最寄りの鎮へ行くには、3日3晩、歩かなければならない。
こうした現状を改善するために、ハンギン旗の政府所在地であるシン(錫尼)からバヤンウス(巴音烏蘇)鎮まで、クブチ砂漠を貫通する道路を建設することになった。綿密な探査と設計を経て、1997年7月、百台のブルドーザーがクブチ砂漠に入った。 しかし、砂漠に道路をつくるのは簡単ではない。酷暑の時期、砂漠の平均気温は40度に達し、狂ったような強風が黄砂を巻き上げ、人はほとんど息ができないほどだ。一番頭が痛い問題は、前日に苦労を重ねてつくった道路が、翌日になると砂に埋まってしまうことだった。 道路をつくるにはまず砂漠を治めなければならない。そこで、13万のハンギン旗の人々は、道路の沿線に、砂に強い砂柳を植えたり、麦わらを砂地に差し込んだりして、格子状の砂止め地帯をつくり、砂丘を道路のわきに固定した。
砂漠の中を車が走るのは難しく、沿線に植える砂柳や苗木は、ほとんど人の手で運ばなければならない。炎天下で、50キロの荷物を背負って5キロ歩くこともあった。昼食は砂漠の中で食べる。一杯のインスタントラーメンをまだ食べ終わらないうちに、食器の中は舞い落ちてくる砂で半分ほど埋まった。 砂漠は蒸発が激しいので、苗木の成育はなかなか育たない。ある牧畜民は、何度も試験した結果、ついに「容器植木法」を編み出した。これは水をいっぱい入れたペットボトルに苗木の根を入れて、地下に埋める。ボトルの中の水がなくなるとき、根はすでにボトルの口から出て付近の土地に根付く。こうして、苗木は育つようになった。 1998年10月、全長115キロの「砂漠貫通道路」は全線開通した。今では、ハンギン旗から砂漠を走る道路は全部で5本になった。全長350キロ。道路沿線には、空中播種による造林45万ムー(1ムーは6.667アール)、人工造林25万ムー、砂を固定した林51万ムーあり、砂漠の移動をコントロールできるようになった面積は114ムーに達する。 砂漠化との闘いを支援する日本の友人たち クブチ砂漠の一角、ダラド(達拉特)旗ウラン(烏蘭)郷のエングベー(恩格貝)生態モデル地区に、一人の「緑の使者」の銅像が立っている。日よけ帽子をかぶり、スコップを手に遥か彼方を見つめている老人――この人こそ、日本砂漠緑化実践協会の元会長、遠山正瑛博士である。 遠山博士は日本の山梨県に生まれ、京都大学時代から砂漠の緑化に興味を持つようになった。卒業した後、鳥取大学で教鞭をとるかたわら、日本海の海岸砂丘の開発に取り組み、24万ヘクタールの砂丘を農地に変えた。このため「砂漠の父」と称えられている。 1990年、85歳の高齢にもかかわらず、遠山博士はクブチ砂漠の真ん中にあるエングベーにやってきた。そのとき、オルドス・カシミヤ集団の副総裁であった王明海さんが、百人余りの人とともに砂漠と闘っている姿を見た。遠山博士はすぐに、この地に留まることを決めた。 1991年、遠山博士は日本で「日本砂漠緑化実践協会」を設立した。それから毎年春、彼はエングベーへやってきて植樹し、砂漠化を防止した。また、植樹のために次々にやって来る日本砂漠緑化実践チームをもてなした。 日本に戻った彼はあちこち奔走し、新聞、テレビや集会で、砂漠の開発と砂漠化防止を説いた。彼は資産を注ぎ込み、鳥取にある家産を売り払っただけでなく、日本国民に「一人が一週間に一食、食事を節約してエングベーを支援しよう」と呼びかけた。
十数年の間に遠山博士は、エングベーのために200万元を集めた。335チーム、合わせて6600人の日本人ボランティアを引き連れて、300万本以上植樹した。 2004年2月、99歳の遠山博士は、鳥取市で永眠した。本人の願いにより、遺骨の半分はエングベーの地に安置された。 遠山博士の精神に感化されて、多くの人がエングベーにやってきた。美しい半月湖のほとりに、丸い石を積み上げて築いた石の塀があり、「緑の塀」と呼ばれている。丸い石の一つ一つに、1989年からエングベーの緑化に尽力した1万人近いボランティアの名前が刻まれている。中国人や日本人だけでなく、ドイツ人やアメリカ人、オーストラリア人の名もある。 現在、エングベーには、すでに植えられた喬木が300万株、緑地16万ムー、育苗基地1200万ムー、優良ブドウ園百ムーがあり、3000羽以上の駝鳥が養殖されている。緑化率は以前の5%から40%に高まった。
遠山博士はこの世を去ったが、彼が始めた緑化事業は止まらなかった。モデル地区で、植樹に出かける安田廉さんと出会った。安田さんは今年58歳。1992年に好奇心からエングベーに来て植林したが、すぐに大砂漠の魅力の虜となった。それから毎年1、2カ月間、自費でエングベーを訪れ、緑化事業に力を尽くしてきた。 日本で遠山博士の資金集めを助け、さらに自分の会社から巨額な資金を寄付した。2000年、安田さんは日本砂漠緑化実践協会の正式な職員となり、エングベーの植樹造林事業を担当するようになった。 毎年3月から11月まで、安田さんはずっとここで苗木を剪定したり、水をやったりし、日本に戻ると各地を資金募集のために駆け回っている。彼の会社は倒産し、妻が文房具店を経営し、生計を立てていたが、不幸にも4年前、大火事に見舞われ、妻の生命が奪われてしまった。そのときも安田さんは、エングベーにいた。 現在、安田さんはすでに、エングベーを自分の家だと思い、ここで「80歳まではがんばりたい」と言っている。 「アミダの森」を育てる
遠山博士の砂漠緑化の実践は、多くの日本人に影響を与えた。 広島の教専寺(浄土真宗)の故選一法住職(68歳)は、1997年、大学の同窓会で、遠山博士の植林事業を支援しようと呼びかけた。たちまち7人の僧侶がこれに応じ、クブチ砂漠のエングベーを訪れた。一行は、目の前に広がる広大な砂漠に深く心を動かされ、中国で長期にわたり植樹をしようと考えるようになった。 そして8人の僧侶は「アミダの森」をつくろうという呼びかけ、「NPO法人アミダの森」をスタートさせ、故選一法住職が理事長になった。そして「アミダの森・緑の協力隊」をつくり、北海道から鹿児島まで相次いで34カ所の事務所を開設して、「苗木1本120円」運動を展開した。また各寺院に募金箱を置き、各家庭にも小さな募金箱を置いてもらってカンパを募った。 またパンフレットや説明会、広告などを通じて苗木基金を集め、日本砂漠緑化実践協会から遠山博士の元に送金した。1997年から2001年までの間に、合わせて17組の「アミダの森協力隊」、計462人がエングベーに来て、85万本以上の木を植えた。 だが、広大な砂漠の緑化には、エングベー一カ所を植樹するだけではまったく不十分である。このために、2000年夏、「アミダの森協力隊」の135人の隊員は、内蒙古自治区東部にある通遼市のホルチン(科爾沁)砂地に、2番目の植樹基地を開設し、2006年までにすでに150万本近くの木を植えた。
内蒙古自治区シリンホト(錫林浩特)市のオンチンダガ(渾善達克)砂地は、北京までの直線距離が180キロしかない。北京にもっとも近い砂地である。2008年の北京オリンピックのために、優れた生態環境をつくるため、2002年春から「アミダの森」は、シリンホト市の南98.5キロのところにある鉄道と道路の間に、東西の長さ1200メートル、南北の幅800メートルの「中日友好百年林区」を開設した。そしてここに、世界各地の人々が来て植樹をしてもらおうという考えだ。第1期プロジェクトが2011年に完成するまでに、毎年20万から30万本の木を植える計画だ。 砂漠化の進行によって、現地の人々の生活は非常に貧しく、学費を納めることができないため、学校を中退する子どももいた。「アミダの森」は2004年から、毎年10人の貧しい子どもを学校に行かせるために、資金援助を行った。また、子どもの環境保護の意識を培うため、「教育基金苗圃」を設立した。子どもたちが自ら働いて、自らの手で故郷の姿を変えることを目指している。 「アミダの森」の活動ですでに、1400人近くの隊員が内蒙古に来て、300万本の木を植えた。現在、毎年4、5回、100人以上の隊員が内蒙古に来て植樹している。彼らは、こうした努力を通じて、砂漠が人類の美しい故郷になるよう望んでいる。「すべての人々と手を取り合い、ともに砂漠の緑化に貢献しよう」――これは故選理事長の初志でもある。 『人民中国』6月号より |