遺恨が消えることはなかった。
では、日本はこのいさかいにどう関わったのか。 日本人は朝鮮半島進出のチャンスを虎視眈々と狙っていた。新羅と百済は朝鮮半島の南部にあり、いずれも弱小国家だった。それに加えて日本に最も近かったため、彼らは尚武国家である隣邦を常に恐れていた。日本から朝貢を強いられたことすらあったのだ。その中で新羅は二方面戦略を採った。一方では日本と仲良くしながら、一方で唐に接近したのである。このような外交戦略に当然日本は激怒した。新羅の使者が唐服を着て訪日したとき、国外にたたき出されたこともあった。
李世民が高句麗を攻めたとき、百済は戦火に乗じて新羅の十数か所の都市で略奪を行った。日本もまた新羅の分け前にあずかろうと考え、百済との関係を強めるようになった。唐の攻撃による困難を脱却した高句麗は、矛先を新羅に向けるようになった。親唐国の新羅は、3つの隣国に狙われる立場となった。
655年、李世民の息子である高宗李治の治世時期、新羅は百済と高句麗の連合軍に責められ、33か所の都市を奪われ、新羅王の金法敏は使者を派遣して唐に救援を求めた。かつての恨みも相まって、李治は一気に朝鮮問題を解決することに決めた。
这个梁子算结下了。
那么,日本是怎么搅上这趟浑水的?日本人对近邻朝鲜半岛一向虎视眈眈。新罗和百济两国地处朝鲜半岛南部,国力弱小,加之和日本最接近,所以对这个尚武的强邻一向敬畏有加,一度被迫向日本朝贡。不过,新罗脚踩两只船,一方面不得罪日本,一方面积极向大唐靠拢。这种外交上的变化当然激怒了日本人,有一次,新罗使者身着唐服出使日本,竟然被乱棍驱赶出境。
李世民攻打高句丽时,百济趁火打劫,抢占了新罗的十几个城池,日本也觉得是个瓜分新罗的好机会,所以加强了和百济的“通好”。等到高句丽从唐朝攻打的困境中脱身,也把矛头指向了新罗。亲唐的新罗,一下成了三个邻国的嘴边肥肉。
公元655年,唐高宗——李世民的儿子李治在位时期,新罗受到了百济和高句丽的联手进攻,一连被夺去三十三座城,新罗王金法敏紧急遣使到唐朝求援。新仇旧怨加一起,李治决定一揽子解决朝鲜问题。