唐と新羅に対し、高句麗と百済、日本が対峙した。二手に分かれた戦争で、勝ったのはどちらだったのか。
唐軍は、先には蘇定方、後には劉仁軌がいた。
李治は13万人の大軍を送り込んで新羅を助け、百済を討伐した。
総司令官は69歳の左衛大将軍、神丘道行軍大摠管の蘇定方だった。
660年3月、蘇定方は13万人近い水陸両軍を率いた。戦艦1900隻に5万の新羅兵、合わせて18万の大軍が百済を襲った。百済兵は熊津江口(今の錦江口)で防戦したが、蘇定方の率いる精鋭たちは河を渡って進撃を続け、百済を大敗させた。数千人が殺され、残りは敗走した。蘇定方は勝利に乗じて、百済の首都である倶抜城(今の全州)に迫った。都まで20里のところで「賊どもは唐軍が破った。殺した数と捕虜の数は万人に上る」と言って、百済の義慈王と王子の隆を北に追いやった。唐軍は追撃を続け、最後には、王と王子は降伏する他はなかった。
战争双方:唐朝、新罗VS高句丽、百济、日本,二对三,谁是最后胜利者?
前有苏定方,后有刘仁轨
李治派出了十三万大军援助新罗,讨伐百济。
统帅是时年69岁的左卫大将军、神丘道大总管苏定方。
公元660年3月,苏定方统率水陆大军近十三万,战船1900艘,加上五万新罗兵,一共十八万大军泰山压顶一样直捣百济。百济兵在熊津江口(今韩国南部锦江口)据险抵抗,苏定方亲率精兵渡江进击,大败百济军,斩杀数千人,余众皆溃。苏定方乘胜直逼百济都城俱拔城(今韩国全州)。离城20里时,“贼倾国来拒,唐军大战破之,杀虏万余人”,逼使百济王义慈及太子隆弃城北逃。唐军乘胜追击,无奈之下,百济王义慈和太子隆面缚而降。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2012年11月26日