劉仁願は唐に使いを遣って事態の急を知らせた。李治は一人考えた後、すぐさま「劉仁軌は兵を率いて救援せよ」との詔書を出した。
当時60歳だった劉仁軌は、清貧の家に育った。隋末の混乱の中、ひとり勉学に勤めた男である。苦労人で大器晩成型のタイプだ。
第一回出兵において劉仁軌は、規律ある士気の高い軍隊を作った。朝鮮に上陸した第一戦目では、唐と新羅の連合軍が出撃し、百済軍に1万人以上の溺死者を出させたものの、百済の旧都の包囲を崩しただけに留まった。劉仁軌と劉仁願は兵を合わせて百済に留まった。
このとき、百済では内輪もめが発生し、百済王の豊が役目を終えた鬼室福信を殺害した。劉仁軌のアイデアにより、唐軍は水陸の両ルートで百済の本拠地である周留城を攻めたてた。その知らせを聞いた百済は、日本に救援を求めた。
刘仁愿遣使向唐廷告急,李治想起了一个人,立刻一纸诏书:着刘仁轨率兵去救!
时年60岁的刘仁轨家境清贫,因隋末战乱,闲居在家“恭谨好学”,算是个自学成才大器晚成的人。
第一次带兵出征的刘仁轨,却军容严整号令严明,登陆朝鲜第一战,唐军与新罗军队联手出击,百济军“溺死者万余人”,只得从百济旧都撤围。刘仁轨和刘仁愿合兵一处,留守百济。
这时,百济内部发生内讧,百济王丰卸磨杀驴杀掉了复国功臣鬼室福信。在刘仁轨建议下,唐军水陆两路直扑百济巢穴周留城,百济闻讯赶紧向日本乞师。