朝鮮奪取はこの一戦にあると心得ていた中大兄皇子は、直ちに全国の兵を半島に送り込んだ。大軍が白村江に上陸したとき、ちょうど劉仁軌が率いる水軍に出くわした。大海戦がここに勃発したのである。
この戦いに勝った劉仁軌の後半生は非常に富貴なものとなった。太子太傅、宰相などを歴任し、84歳まで生きた。しかし彼の名前が後世の人の心に刻まれているのは、その官職にあるのではない。後代まで光り輝く対日戦争の活躍にある。
ある文学者のエピソードがある。近代の著名な教育者である傳斯年の子供は1935年に生まれ、当時はまさに日本の侵略者が「河北自治」を画策していた頃だった。全国で抗日の気運が高まっていた。傳斯年は子供の名前を決める際、家系譜の順番を見ながらという前例を破って「傳仁軌」と名付けた。その意図が分からなかった親友の羅家倫に対して傳斯年は、唐代に日本を大敗させた劉仁軌にあやかったのだと説明した。
中大兄心知争夺朝鲜在此一举,立刻倾全国之兵渡海作战,大军从白江口登陆,正好碰上刘仁轨率领的唐朝水师,一场大海战就此爆发。
打完这一仗后,刘仁轨后半生富贵无比——一直做到了太子太傅、宰相的大官,活到了84岁高龄。不过,后人牢记刘仁轨这个名字,并不是看中他的官职,而是这场彪炳千古的对日战争。
有一段文人轶事。近代着名教育家傅斯年的儿子在1935年出生,那时正值日本侵略者策动“华北自治”,全国抗日气氛高涨之际。傅斯年给儿子取名时,破例没按家谱排行,而取名叫“傅仁轨”。好友罗家伦猜不到出处,傅斯年解释道,是因为仰慕唐代大败日本的名将刘仁轨。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2012年11月26日
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