総じて言えば、唐代は中国人と日本人がお互い最も好感を抱いていた黄金の時代だった。それは、日本からうやうやしくやって来た遣唐使たちがあってこそだった。彼らは生命の危険を冒して海を渡り、優雅な物腰で学問を探究した。唐朝の一流詩人たちの詩の中でも、中日両国史上最も親密だった様が描かれている。
五代十国の混乱期を経て、宋代に入ると、日本は精神的に成熟し始めてきた。もはや唐朝の時のような、うやうやしい振る舞いをすることはなくなり、政府も使者の交流もほとんど途絶えた。民間の僧侶や商人が頻繁に往来するだけだった。しかし謙遜と向学心があるという日本人に対する印象は、中国人から消えることがなかった。欧陽脩は「日本刀歌」で詠っている。
「伝え聞く其の国大島に居り。土壌沃饒にして風俗好し。其の先に除福は秦民を詐り。薬を採り淹留し丱童老ゆ。百工五種は之と与に居す。今に至るまで器玩は皆精巧。前朝は貢献して屡往来し。士人は往々にして詞藻を工にす。」
大政治家で大詩人である欧陽脩の詩で描かれる「風俗好し。詞藻を工にす。」という日本は、完全に桃源郷の境地である。
欧陽脩は知る由もないことだが、彼が夜を去って200年余り後、モンゴル草原から起こった大きな嵐によって、大半のアジアとヨーロッパ大陸が掃討され、欧陽脩の愛した山河が破壊されただけでなく、彼が詩の中で詠った桃源郷もまた、血でまみれた戦場になったのだった。
总体来说,唐代是中国人和日本人最有好感的黄金岁月,这依赖于日本一批一批恭恭敬敬的遣唐使,他们冒着生命危险远渡重洋,举止温雅求学若渴。在和唐朝的一流诗人吟和诗词之间,也留下了中日史上最缠绵的一页。
经历了五代十国的混乱,中国到了宋代,这时的日本已经养足精神羽翼渐丰,不再像对待唐朝那样恭敬,官方几乎没有使者互通,只有民间的僧侣和客商频繁来往,但日本人谦逊好学的形象在中国人眼里依旧没有改变,欧阳修在《日本刀歌》里吟道:
“传闻其国居大岛,土壤沃饶风俗好。其先徐福诈秦民,采药淹留丱童老。百工五种与之居,至今器玩皆精巧。前朝贡献屡往来,士人往往工词藻。”
在大政治家、大诗人的诗里,“风俗好、工词藻”的日本完全是一派世外桃源。
欧阳修不可能知道,在他去世两百多年后,一场从蒙古草原发起的狂飙风暴,横扫了大半个欧亚大陆,不但摧毁了他所钟爱的故国山川,也让他诗中所吟诵的世外桃源变成了血肉战场。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2012年11月26日