中日両国の始めての戦い 大唐帝国が日本を「唐マニア」に変えた(5)

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タグ: 中日両国 戦い 大唐 日本 歴史 中日历史第一战:大唐将日本揍成超级“唐蜜” 中日対訳

発信時間: 2012-11-26 11:16:30 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

中日両国の始めての戦い

 

唐の時代、日本の遣唐使は、全ての国外使節の中で最も優雅で礼儀のある客人だった。当時の文献は、日本からの使者を「容貌と振る舞いが優雅である」と記している。当時の日本において、遣唐使の派遣は一大事だった。毎回遣唐使を任命する際には「直接選挙」が行われた。最初に、劣るところのない朝廷官吏が選ばれ、次に学問が問われた。先進文化を吸収するという重責を担える人材を選ぶためである。他にも容貌が堂々としており、優雅さも併せ持つ人材が求められた。彼らが出国する前、しばしば天皇が大きな宴席を設け、詩を歌い合い、刀を贈って見送った。また天皇は、彼らに何度も訓戒の言葉を述べた。「向こうへ行ったら、穏やかに振る舞い、学問にはげむと同時に、国体の恥になることはしないように」と。そして彼らが日本に帰国すると、天皇自ら宴会を主催して祝った。任務を果たした遣唐使に対しては官位を上げ、不幸にも遭難した者に対しては家族に補償を与えた。 

面白いことに、このような模倣や進歩速度の速い小国を見て、唐朝も時々自国の「国体」に注意するようになった。唐の蘇鶚が著した「杜陽雑編」に興味深い話が記載されている。 

唐の宣宗年間、日本の王子(日本の史学者は高岳親王、平城天皇の子だと考証する)が唐にやって来た。王子は囲碁が得意だった。宣宗はお抱えの棋士である顧師言と対戦させることにした。局は33手まで進んだが、勝負がつかなかった。顧師言は皇帝の恥になることを恐れ、長考の末、妙手を放った。一手で二つのシチョウを防ぐ鎮神頭という妙手である。日本の王子は「大変お見事でした。地に伏して負けを認めます」と言って、外事を担当する官吏に尋ねた。「顧師言さまは貴国で何番目にお強い方ですか?」官吏は偽って「三番目です」と答えた。実際は、当時一番強い打ち手だった。王子はさらに「一番の打ち手と勝負がしてみたいものです」と言った。官吏は「王子が三番目に勝てば、二番目の者を紹介します。二番目に勝てば、一番目の者を紹介しましょう」と答えた。王子は碁盤に伏せて嘆息し、こう言った。「わが国の一番は、大国の三番目にも敵わないのか」。 

 

 

 

 

 

在唐朝,日本遣唐使是所有国外使者中最有风度和礼貌的客人。文献记载中,唐朝人形容日本使者“容止温雅”。话说当时派遣遣唐使是日本朝廷的一件大事,每次任命的遣唐使都要“海选”:首先是没有劣迹的朝廷官员,其次要有学问,毕竟肩负着学习先进文化的重任,另外,相貌要仪表堂堂,举止要有风度。出海之前,天皇常常大设宴席,和诗赐刀相送,并再三谆谆告诫:“你们这一去,和气为重,既要学成东西,也不能有失国体。”而一旦使船返回日本,天皇也亲自设宴迎接,对完成任务的使臣加官进爵,对不幸遇难者厚加抚恤。

有意思的是,对于这个模仿、进步能力超强的小国,唐朝也得时时注意维护上国的“国体”。

唐人苏鹗的《杜阳杂编》里记载了一段有趣的故事:唐宣宗年间,日本国王子(日本史学家考证为高岳亲王,平城天皇之子)来朝,王子善下围棋,宣宗就让御用棋士——棋待诏顾师言与之对弈。下了三十三着,棋势胶着,胜负未分。顾师言生怕有辱君命,凝思良久,下出一步妙招:镇神头,一子解两征。日本王子“瞪目缩臂,伏地认输”。回头问主管外事的官员:“顾待诏是贵国第几国手?”官员诡称:“第三国手。”其实,顾师言是当时的第一国手。王子又说:“我想和第一国手过过招。”官员回答:“王子胜第三,方得见第二;胜第二,方得见第一。”王子掩局而叹:“小国的第一,不如大国的第三啊!”

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