日本人専門家の目に映った南寧市60年の歩み

北京週報  |  2009-09-16

日本人専門家の目に映った南寧市60年の歩み。1949年10月1日に中華人民共和国が成立したあと、同年12月4日、中国人民解放軍が広西チワン族自治区南寧市に入城、この日から新しい南寧市の一歩がスタートした…

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発信時間:2009-09-16 16:11:05 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

北京週報誌専家 清水由実

今年10月1日に中華人民共和国は建国60周年を迎える。中国を代表するいくつかの都市において60年の歩みを取り上げる本誌の60周年記念企画で8月下旬、広西チワン族自治区の南寧市を訪れた。南寧市と聞いても、ああ、広西チワン族自治区の区都、と思い浮かべる日本人は決して多くはないだろう。広西チワン族自治区と言えば、日本人の頭に浮かぶのは桂林だろう。桂林は日本ではさまざまなテレビCMにも使われ、実際に観光で訪れた人も相当な数にのぼる。だが、広西チワン族自治区の政治の中心は建国以来ずっと、北京から南西に2240㎞のところにある南寧であった。

1949年10月1日に中華人民共和国が成立したあと、同年12月4日、中国人民解放軍が広西チワン族自治区南寧市に入城、この日から新しい南寧市の一歩がスタートした。

04年からは毎年秋に東南アジア諸国連合(ASEAN)博覧会が南寧市で開催されるようになり、これが、南寧市が大きく発展に向けて飛躍するきっかけとなった。

そんな南寧市で、ずっと1つの仕事に携わってきた人々に、彼らが仕事を通して感じた60年の移り変わりを聞いた。

 

<あるドライバーの目─南寧市街の変遷を見つづけて>

南寧市に生まれ、16歳のときに空軍の兵隊となった黄平さん(55歳)は、その後、文化大革命の時期に農村へ行き労働に従事したあと、80年代に南寧市の共産党機関の専属ドライバーとなる。軍隊時代に運転免許を取得した黄さんだが、「7、80年代にはまだ乗用車よりも大型トラックを運転する機会が多かった」という。「当時は道路を行き交う乗用車のほとんどが企業や機関の所有するもの」であった。だが、21世紀に入り、04年からアセアン博覧会が開催されるとの決定を受け、03年ごろから急激にマイカーを持つ人が増え、「今では日に200台ぐらいは増えているのではないか」と黄さんは言う。

市内の建物も大きく様変わりした。「60年代には市内で最も高い建物は、1953年に消防施設として建てられた高さ29.4mの望火楼だった」という。資料によると、当時の恋人同士の間では、デートの待ち合わせ場所として「望火楼の下で会いましょう」の合言葉が流行していたという。その後、高層ビルが続々と建てられたため、消防施設としての機能を失い、1988年に使用停止となり、01年に南寧市の保護文化財となった。そして、今や、南寧市で最も高い建物は2005年に建てられた高さ276mの地王大廈となった。

60年代には南寧市で最も高かった望火楼だが、今は周囲を集合住宅に囲まれ、歴史の遺物となった。

いま、市内で最も高い地王大廈(左手前)は南寧市初の本格的ビジネスビルだ(写真・繆暁陽)

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