日本人専門家の目に映った南寧市60年の歩み

北京週報  |  2009-09-16

日本人専門家の目に映った南寧市60年の歩み。1949年10月1日に中華人民共和国が成立したあと、同年12月4日、中国人民解放軍が広西チワン族自治区南寧市に入城、この日から新しい南寧市の一歩がスタートした…

タグ:日本人 専門家 南寧 60年 歩み

発信時間:2009-09-16 16:11:05 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

 

<ある鉄道労働者の目─鉄道とともに歩んで>

1943年に南寧市で生まれた瀋雲生さん(66歳)は、49年に解放軍が入城した日のことをまだ覚えていると言う。日本軍も含め、たびたび戦火に見舞われていたこの地に解放軍の部隊が入ってきたとき、彼は子供心にまた戦争が始まったと思ったが、翌日になってやっとそうではないことがわかったと言う。

日焼けした鉄道労働者にふさわしい面貌の瀋さんは1960年に柳州鉄道学院に入学して2年間、運輸を専門に学ぶ。その後、軍隊生活を送ったあと、68年に南寧駅に配属されて鉄道労働者となる。

80年代生まれの若い記者の、なぜ鉄道労働者になる道を選んだのか、との質問に対し、瀋さんは怪訝な面持ちで「配属されたからさ」と答える。この時代、鉄道学院に入学したのも鉄道労働者となったのもすべて、今の時代と違って、自分がそうしたいと思ってしたことではなく、「祖国がそのことを必要とし、配属という形で決められた」のだと瀋さんは言う。

68年から正式に鉄道労働者人生のスタートを切った瀋さんだが、当時は文化大革命(文革)の真っただ中。しかも「南寧駅は柳州鉄道局の中で最初に革命委員会が設立され、武闘が最も激しかった駅」で、混乱の中で仕事に就いたという。貨物輸送はマヒ状態という混乱のなか、反動的な人物を摘発するという、当時ならではの業務に就き、73年ごろからやっと秩序が戻ってくると、車両交換の仕事に従事するようになった。車両交換の仕事は当時、最も骨の折れる仕事と言われ、貨車も客車も含めて、単線を走る北京、慿祥、湛江方面に向かう3路線のすべての車両交換を担ったという。

その後、技術室や安全室、安全監督室などに勤務したあと03年に定年退職するまで、35年にわたって鉄道労働者としての人生を歩み続けてきた。

仕事を通して感じたこの数十年の変化について、瀋さんは次のように話してくれた。

文革後から80年代にかけては、79年にベトナムと交戦状態に入ったため、「兵器、ミサイルなどの物資を大量に輸送した。仕事は非常に緊張しており、改革開放後も部隊に囲まれた中で」輸送業務が続いたと言う。そして鉄道が飛躍的に変わったのは90年代に入ってからだという。複線化が実現したほか、コンピュータ制御の技術が導入され、技術面で大きく変化した。「たとえば89年ごろから、南昆(南寧=昆明)線の建設が進められたが、それまで、貴州から昆明までは非常に貧しい山間地帯で、原始的とも言える生活ぶりだった。豊かになろうとすれば、まず輸送路を通さねばならなかった。鉄道ができて、鉱産物、石炭、木材などが運ばれ始め、生活が好転し、着るものもよくなった」と瀋さんは言う。その南昆線は97年に全線が開通し営業を始めた。

労働環境も大きく変わり、それまでは35、6度にもなる猛暑の中で仕事していた職場にエアコンが取り付けられ、待合室にもエアコンが入った。

瀋さん個人の暮らしの変化については次のように語ってくれた。

60年代の初めの3年間は自然災害に見舞われ、かなり苦しい生活を強いられた。そのころの給料は4.5元だった。70年代の生活は60年代よりは良くなったが、まだ計画経済で、何を買うにも配給切符が必要だった。60年代に比べればモノはあったが、それを手に入れるのは難しかった。そのころの給料は43.5元だったが、74年には自転車を購入、75年には給料を前借りし、職場が一括購入する形で430元の三菱の白黒テレビを買った。その後、少しずつ給料から天引きされ、2年で返済した。生活が大きく変わったのは80年前後だ。80年代に入ると生活も仕事をとりまく環境も労働条件も次第に変化していった。特に86年以降は給料が大幅にアップした。基本給は90元弱だったが、このころから導入され始めた報奨金や手当の支給が時には2、300元になることがあり、基本給を上回ることもあった。90年代になると、子どもも含めて家族全員が仕事に就くようになり、生活が楽になった。そして食べたいものが買えるようになり、給料も報奨金などを含めて500元ぐらいになった。また、91年に60㎡弱の2DKの部屋に移った。それまでは一家4人が40㎡弱のキッチンのない1Lの部屋に住んでいた。2000年以降は、行きたいところへ行けるようになり、基本給は1000元ほどになり、定年退職した03年には100㎡の部屋に移った。退職後は毎月3000元余りもらい、今は規則正しい生活をしている。朝6時半に起床、妻と2人で外出して他の老人とともに8時半まで気排球(軽いボールを使った老人向けのバレーボール)で運動。それから野菜市場をブラブラして買い物。家に帰ってから昼食を作って食べて、昼寝。午後は夕食のあと散歩に出るのが日課だという。

今の生活に対する感想を聞くと、「妻と2人、健康で自分の生活スタイルを自分で決められる今の暮らしは、役人になるよりも幸せな暮らしだと思う」と豪快に笑いながら答えた瀋さんの、長年1つの仕事に打ち込んできた自信に裏打ちされた笑顔が印象的だった。

35年の歳月を鉄道労働者として歩んできた瀋雲生さん(南寧駅で。写真・繆暁陽)

74年に新たに建てられ、今も使われている南寧駅(写真・繆暁陽)

50年代にソ連(当時)の技術援助で建てられた旧南寧駅

<  1  2  3  >  


Twitter Facebook を加えれば、チャイナネットと交流することができます。
中国網アプリをダウンロード

日本人フルタイムスタッフ募集     中国人編集者募集
「中国網日本語版(チャイナネット)」の記事の無断転用を禁じます。問い合わせはzy@china.org.cnまで