日本人専門家の目に映った南寧市60年の歩み

北京週報  |  2009-09-16

日本人専門家の目に映った南寧市60年の歩み。1949年10月1日に中華人民共和国が成立したあと、同年12月4日、中国人民解放軍が広西チワン族自治区南寧市に入城、この日から新しい南寧市の一歩がスタートした…

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発信時間:2009-09-16 16:11:05 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

 

<高校教師の目─若者とともに歩んで>

1953年以降、広西チワン族自治区の重点校として多くの知名人を輩出してきた南寧第三高校は、清末の1897年に開かれた私塾が前身だ。同校の方潔玲校長によると、その後、1906年に規模を広げ、公立高校として新たに出発。以後、数回にわたる分散、合併を繰り返したが、解放後は1950年に広西省南寧高校としてスタート、55年に校名が広西省南寧第三高校に変わって現在に至っている。

その南寧第三高校で1960年から93年まで国語教師を務めた郭先安さん(71歳)と同校の卒業生で92年から物理教師を務め、今も教鞭をとる朱寿康さん(62歳)。2人に、教え子たちを通じて感じたそれぞれの時代の「当世学生気質」を聞いた。

郭先安さんは湖南省の湘潭で生まれ、長沙で育った。高校を卒業するころ、若者は農村・辺境へ行こう、という呼びかけに応じて数人のクラスメートとともに、桂林へ行き、師範大学に入学、卒業後、南寧第三高校に配属された。彼女が同校に赴任した1960年当時は、ちょうど大きな自然災害に見舞われたときだった。周囲に高い建物などまったくなく、交通手段も少なく、どこへ行くにもすべて徒歩だったこの時代の生徒は「辛酸をなめた」と郭さんは言う。当時、教室と教室の間の空き地には野菜を植えていた。各クラスに野菜畑があてがわれ、毎週土曜日は一日中、生徒自ら野菜を栽培するばかりでなく、鶏や豚を飼育し、それらを食堂で食べるという「自給自足」の生活をしていた。そんな状況が70年代まで続いたという。

当時の生徒は「何もかも自分の力でやった。着ている服が傷めば自分で縫い、自分で野菜を植え、学校の農場で雑穀やトウモロコシを栽培し収穫していた。卒業すると、就職する者も大学に進学する者もいたが、大学進学に関しては、生徒も父兄も今のようにはこだわっていなかった」と郭さんは言う。

そして郭さんは「今の子たちは違う。“衣来伸手、飯来張口”(手を伸ばせば服を着せてもらい、口を開けば食べ物をあてがわれる)だ」と続けた。

郭さんが赴任して6年後、文化大革命が始まると学校での授業はストップし、全校が壁新聞で埋まった。76年に文革が収束するまで不正常な状態が続き、77年には大学入試が復活、78年には同校から8人の生徒が北京大学、清華大学に合格したという。

大学入試が復活して間もない80年代の生徒は「非常に努力して勉強に励んだ」と郭さんは言う。彼らは今の時代ほど競争が激しくはなかったが、文革時代に失われていた学習に対する渇望があり、「学習の目的や理念が明確だった」と郭さんは言う。

朱寿康さんが同校に赴任した92年のころの生徒は80年代の生徒とさして大きな変化は見られなかったが、2000年以降にインターネットが登場すると、学業よりもこれに熱中する生徒が増え始めたという。「その後、ネットカフェに対する規制措置が講じられたり、家庭でインターネットにアクセスできるようになったりしたことで、今は落ち着いている」と朱さんは言う。だが、法整備の進展に伴い、生徒の学園生活に対する学校の責任が条文化されたことなどにより、少しでもケガを負う恐れのある遊具などが撤去されるという日本と同じような状況が中国でも起きているという。

01年から同校の校長を務める方潔玲さんは、今の生徒の特徴として、「家庭環境が変わってきており、離婚による一人親家庭が増えている」と言う。そして、それが、生徒の性格に影響を与えることもあるという。また、「非常に裕福な家庭の子もいれば、リストラされた家庭の子もいて、家庭環境が多様化している」と指摘する。

方校長によると同校では、大学進学を希望する貧しい家庭の生徒に対しては、この7年間、毎年、校友基金から1人当たり4000元を30人の生徒に補助しているほか、大学入学後1年目の学費を援助している。このほか、毎年1500元を拠出して60人の生徒の健康維持に使っているという。学資援助に当たっては、本人が貧しいことを隠す傾向にあるため、食堂で消費される1カ月の食費から察して学校側が本人に連絡をとり、さらに、彼らの自尊心を尊重するため、本人とクラス担任以外には支援のことが知られないようにするというきめ細かい配慮をしているそうだ。

自分の食べるものを自ら栽培した時代から、インターネットを通じてあらゆる情報があふれ、欲しいものは何でも容易に手に入れられる時代へ、そして、貧しくとも皆が一様に苦労していた時代から多様化の時代へ、60年の間に中国の若者気質も大きく変わってきたようだ。

60年に郭さんが赴任したてのころは、生徒たちが食べる野菜を生徒自らが栽培していた

教師一筋の道を歩んできた郭先安さん(写真・繆暁陽)

4LDK約100㎡の郭さんの住宅。赴任したてのころはガスもキッチンもトイレもない約20㎡の宿舎、改革開放後には条件が大きく向上し、2DK約70㎡の新しい宿舎に、その後さらに3LDK80㎡ほどの部屋に移ったあと、2000年に今のこの住宅に移ったという(写真・繆暁陽)

<今後の南寧市─平和が何より>

改革開放後もほかの都市に比べて発展の出足が遅れた南寧市だが、これが逆に幸いして、深刻な環境汚染にさらされなかったというメリットにも恵まれたようだ。ASEAN博覧会の開催を機に、21世紀に入ってから飛躍的発展のチャンスを伺う南寧市は、これまでの「緑城(緑の都)」という看板に加えて、今後は市内に数多く流れる川の流れをつないで新たに「水城(水の都)」として出発しようとしている。都市の発展には平和と安定が欠かせないということを、今後、この都市は身をもって示すことになるのだろう。

「北京週報日本語版」 2009年9月16日

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