戦後日本における米軍向け慰安婦の悲惨な生活(1)

戦後日本における米軍向け慰安婦の悲惨な生活(1)。 「新日本女性求む——外国人クラブ女性事務員、宿舎、衣服、食料すべて支給。高収入、年齢18歳以上25歳まで」。1945年9月20日、こうした文言が並ぶ広告が日本の大手新聞各紙に掲載された。一見普通の求人広告と変わらず、何の問題もないように思えるが、この広告を出したのは、日本政府や警視庁が設立に関わった特殊慰安施設協会(RAA)であった…

タグ: 戦後 日本 慰安婦 小町園 横浜

発信時間: 2010-07-26 17:11:51 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

このようにして、全国に慰安所が設置され、「慰安」サービスに従事する女性の数は最多時には6万人に達した。これらの女性たちには「特別挺身隊員」という差別的な名称が付けられていた。

慰安所でこうしたサービスに従事した女性たちは当初、仕事の内容について理解していなかった。当時、日本人男性すら仕事を見つけることができず、まして女性はなおさら困難だった。求人広告が出されると、これを見た応募者が殺到し、その数は数千人にものぼった。彼女たちは自分自身が悲惨な運命に向き合うことになろうとは、全く知る由もなかった。

最初に開設された小町園慰安所は9月2日に開業が予定されていたが、その5日前に待ちきれなくなった米軍兵士がマシンガンを提げてやって来た。彼らは強引に慰安所内に上がり込み、従業員に暴力を振るった後、すべての慰安婦たちを強姦した。

日本の有名な港湾都市である横浜では、開業を翌日に控えた慰安所に、100人以上の米軍黒人兵士が押しかけた。カービン銃を持った彼らは14人の慰安婦を大広間に移らせ、服を脱がせた後、並んで輪姦した。慰安婦たちの悲痛な叫び声が真夜中まで響き渡ったが、最後には声を出す力もなくなっていた。日本の警察はこの現場を通りかかっても、そそくさと迂回し離れ、一切関わろうとしなかった。米軍兵士は夜が明けるとキャンプに戻っていったが、慰安婦たちは体中傷だらけのまま床に横たわり息も絶え絶えになっていた。だが、彼女たちの心に受けた傷は体の傷よりもはるかに大きな痛みをもたらした。

(つづく)

戦後日本における米軍向け慰安婦の悲惨な生活(2)

「中国網日本語版(チャイナネット)」 2010年7月26日

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