資料写真:2005年8月17日、「濰県収容所」解放60周年記念に際し、収容所の旧跡で記念活動が行われ、当時収容所に拘禁された欧米人67人が60年ぶりに再会を果たした
日本僑報電子週刊は16日、王偉彬広島修道大学法学部教授が書いた『日本でほとんど知られていない欧米人拘禁の「濰(ウィー)県(シィン)収容所」』を【号外】として配信した。編集長段躍中氏が「編者より」の中に、日本の大手メディアには掲載してくれなかったこの素晴らしい記事を一日でも早く皆さんに読んで頂くため、日本僑報電子週刊から号外配信することを決定しました。良識のある日本の大手メディアにも取り上げていただければと編集者が期待する。
以下は王偉彬氏が書いた報告の全文である。
日本でほとんど知られていない欧米人拘禁の「濰県収容所」
―戦時中アジア最大規模の収容所を訪ねて
太平洋戦争勃発後、米国居住の日系人の自由が奪われた「日系人収容所」は日本でよく知られているが、旧日本軍が中国在住の欧米人(日本の同盟国であったドイツやイタリア及びスイスのような中立国を除く、以下同)を強制的に拘禁したことはほとんど知られていない。彼らが収容された施設は「濰県収容所」という。
実は、濰県というところが筆者の故郷・現山東省濰坊市の1949年前の名前であった。筆者が収容所のことを初めて知ったのは、数年前に衛星放送で見た香港のあるテレビ番組によってだった。
今年1月、広島のある国際交流の団体から、山東省を訪問するため、中日の歴史に関する現地の旧跡等を紹介してほしいと頼まれた。筆者がその「濰県収容所」を紹介しようとしたが、意外に日本側にはそれに関する資料はなかった。刊行物だけではなく、インターネットの日本サイトにおいても収容所に関連する紹介は見つからなかった。中国語の資料を日本語に訳してそれを紹介したが、戦後65年も経ったにもかかわらず、歴史上のこの重大な出来事であった「濰県収容所」が、日本ではほとんど知られていないことは不思議に思われた。
今年の5月、筆者が故郷に帰り、「濰県収容所」を自分の目で確認する機会があった。「日本からの見学者として、あなたは2番目で、広島の市民団体が初めてだ」といわれた。
収容所は、現在、当時の建物が一部しか残っていなく、当時の様子はほとんど見られない。その跡地に現在中学校の校舎と市立病院(一部)が建てられている。残存の建物の中の一つが「濰県収容所記念館」になっている。