収容された欧米人は、外へ出る自由はないが、収容所の中では信仰や文芸、教育活動などは認められ、大きな不自由はなかったという。しかし、特に1943年以降の戦局激化に伴い、食糧難や医薬品の欠乏が問題となった。現地の人たちは収容所に拘禁された人々に同情を寄せ、募金を集め、青島にある中立国のスイスの施設を通して医薬品などを収容所に送ったりした。また、付近の農民たちが秘密裏に壁を越えて内部との品物交換を行ったという。
脱走事件も発生した。米英の二人の若者が、現地の抗日ゲリラの助けで収容所から逃げた。この事件は、収容所内外で厳しい尋問をもたらしたが、脱走した二人は、重慶にある国民政府や駐中国の米英大使館に手紙を出して、初めて「濰県収容所」内のことを知らせた。これが1945年8月の米軍の特別救助活動による「濰県収容所」の迅速な解放にもつながった。米国人の脱走者であったアーサー・フンメル・ジュニア氏は戦後、キッシンジャー米国務長官の顧問等を歴任し、1981年に駐中国大使に任命され、米国から台湾への武器売却問題をめぐる著名な文書となった中米「8.17コミュニケ」の交渉にあたった。
現在、濰県収容所記念館には、当時の収容所内に関する多くの写真が展示されている。中に、拘禁された人たちが描いた収容所内の様子や美しい自然のスケッチも多くあった。そのほとんどは収容所解放60周年記念のため、彼らから寄せられたものだという。
1945年8月17日に、米軍の特別救助隊の飛行機が飛来。収容所の人々は解放され、約3年半の収容所生活は終わった。