欧米人を拘禁した旧日本軍「濰県収容所」を訪ねて

欧米人を拘禁した旧日本軍「濰県収容所」を訪ねて。 太平洋戦争勃発後、米国居住の日系人の自由が奪われた「日系人収容所」は日本でよく知られているが、旧日本軍が中国在住の欧米人(日本の同盟国であったドイツやイタリア及びスイスのような中立国を除く、以下同)を強制的に拘禁したことはほとんど知られていない。彼らが収容された施設は「濰県収容所」という…

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発信時間: 2010-08-26 14:15:30 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

「濰県収容所」は1942年3月にできた。1941年12月の太平洋戦争勃発後、米政府はスパイ活動等を防止するため、在米日系人を複数の収容所に隔離する大統領令を出した。記念館の資料などは、旧日本軍による欧米敵国市民の拘束は、米国のこの動きに対する報復措置だったとしている。

旧日本軍は、中国南方の欧米人の居留者を香港と上海にある小規模の収容所に拘禁し、長江以北の欧米人の居留者を各地から強制的に集め、秘密裏に濰県(現濰坊市)の郊外にある「楽道院」(キリスト関係の学校や病院の施設)に拘禁し、「濰県収容所」を作った。拘禁された人数は計2008人(2250人ともいう)に上り、アジアでは最大規模の収容所であった。後に、捕虜交換により500人が釈放された。

資料によると、収容された欧米人のうち、宣教師、ビジネス関係者、教師及び学生(うち児童が327名)など様々な人が含まれている。例えば、著名な燕京大学(後に当該大学の一部が北京大学と併合)の欧米籍教授33人、山東省煙台市にある英国人経営の寄宿学校の約300人の中学生がここに収容された。

著名人もいた。例えば英国出身で、パリ五輪(1924年)で陸上男子400メートルの金メダルを獲得したエリック・リデル氏。宣教師として中国に渡ったリデル氏は、三年ほどの厳しい収容所生活を送った後、1945年2月,脳疾病で収容所内で亡くなった。彼の生い立ちが映画「炎のランナー」(1981年)に描写され、第54回アカデミー賞作品賞を受賞した。

当時北京の燕京大学校務長のジョン・スチュアート氏もいた。彼は終戦後に収容所から解放され、燕京大学学長等をした後、米国の駐中華民国大使に任命され、共産党と戦う蒋介石の国民党政府を支援したことで、毛沢東の批判を買った(『毛沢東選集』第4巻:「さらば、スチュアート!」

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