「日中友好を永遠に継続させること」
この気持ちの上での裏切りを回避するため、日本は共同声明に使用する語句に対し過敏になっていた。これには、周恩来までもが「私は温和な性格だが、もう我慢できない。」と言った。田中は仕方なくこう返した。「(自分は反対でなくても)私にはそれを言うことができない。言えば自民党が分裂してしまう。」
政治における田中の譲歩には限度があったが、毛沢東主席も周恩来総理も古文に親しむ世代であり、「義理」を重んじる次の一手を打った。毛氏が田中角栄に糸綴じの『楚辞』を贈ったのだ。日本の政界は大部分が世襲制であり、平民出身の田中はいつも「田舎者」とされていた。そんな田中に、日本においても文章力で名高い毛氏(彼は美しい格式や韻律の詩を書く事で有名)から『楚辞』が贈られたのだ。これは、田中を「文化人」として見ていることを意味する。これで、田中は痛く感銘を受け、臨終の病床でも娘の真紀子に対し「日中友好を永遠に継続させなければならない。」と繰り返した。
その後、世紀が変わり、小泉内閣が改革を行い、田中真紀子が日本初の女性外相となった。彼女は外相就任直後、李登輝訪日を拒否、中国の顔を立てた。しかし、彼女はどこで欧州左翼党の所作を覚えたのか、ブッシュ首相のミサイル防衛計画はテキサス石油業界の影響を受けているのではないかと批判し、米国の大きな反感を買った。これには、自民党トップも事あるごとに、このビッグマウスを追い払おうとするようになってしまった。