時代の変遷とともに
最も早くタイム誌の表紙になった中国人は、北洋軍閥直隷派の領袖・呉佩孚である。1924年9月8日号の表紙を飾り、「呉将軍、中国の最強者」という説明が付けられた。このとき、一代の梟雄であった呉佩孚はその威名を天下にとどろかせていた。彼の支配する直系勢力は、北は山海関から南は上海まで、中国の大半に影響を及ぼしていたのである。
呉佩孚のあと、カバーパーソンとなった中国人はいずれも時代の変遷とともに登場している。蒋介石が1927年に初めて表紙を飾ったときは、中国は大革命の大きな変動の最中にあった。蒋介石の下で北伐・抗日戦を指導した陳誠が1941年に表紙を飾ったときは、重慶爆撃の苦難の中にあった。1949年2月の毛沢東の初めての登場は、中国本土で国民党政権が崩壊し、共産党政権がスタートした時期にあたる。鄧小平が1976年に初めて登場したときは、彼の政治的復活と病床にあった周恩来の後継者になりうるかどうかが注目されていた。1979年と1986年に「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれたときは、中国は混乱から正常化へと向かい、改革開放の道を進んでいた。1997年の最後の登場は、鄧小平がこの世を去り、20世紀がまもなく終わろうとしているときであった。
また、新型肺炎(SARS)が中国全土に猛威をふるった2003年春には、マスクをかけた普通の中国人が表紙を飾った。世界を震撼させた四川大地震発生後の2008年6月には、しっかりとつながれた2本の手の写真が表紙になった。そして、2010年に温家宝が初めて表紙を飾ったが、これは世界の「為替戦争」のスタートとともにある。人民元の為替レート問題が国際関係、とりわけ中米関係の争点となり、中国はかつてないほどの圧力をかけられている。
タイム誌は独自の視点と価値観からカバーパーソンの物語やニュースを選択しており、西側の主流社会が抱く中国のイメージを代表している。
2009年12月16日、「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に米連邦準備理事会(FRB)のバーナンキ議長と中国人民銀行の周小川総裁のほか、「中国の労働者」も選ばれた。
しかし、「中国の労働者」が選ばれた理由は、タイム誌が人道主義的な観点から中国のこの黙する巨大集団に関心を抱いたからでは決してない。彼らの「中国の労働者」への関心は、世界経済を救うこと、より正確に言えば、「何百万という米国の家庭を救うこと」に基づいたものである。彼らの関心は、米国経済はいつ回復するのか、金融危機はいつ極限に達するのかにあるのだ。実際のところ、米国の思考方式と行動方式はいつでも自国の利益と経済発展を出発点としているにもかかわらず、多くの場合、「世界経済を救う」「人類全体の利益のために」といった名目を打ち立てるのである。
タイム誌の唯一の文化報道に関する表紙に、突然、ルイ・ヴィトンのロゴが入った人民服を着た毛沢東が登場した。その号は「中国の新革命」というテーマで20ページ余りにわたって関連文章を掲載し、台頭する中国を主軸として、中国の政治、軍事、経済、社会、人権などの状況を全面的に読み解いた。しかし、中米関係の問題においては依然として中国への不信感や脅威感が根強い。ペンタゴンの一部政治家は「中国脅威論」を絶えず吹聴しているが、これは日に日に強大になる中国に米国政府が不安を感じていることの現れである。
タイム誌はこれまでの87年の歴史の中で、太平洋の向こう側の国・中国への関心を途絶えさせたことがない。彼らは独自の視点と価値観からカバーパーソンの物語やニュースを選択しており、西側の主流社会の中国に対する印象・理解を代表しているのである。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2010年10月25日