「苦難を耐え忍ぶ好青年」と呼ばれる
1969年1月、習氏を含む15名の北京の知識青年達が延安市文安駅の梁家河村に到着した。地名は“梁家河”であるが、実際には本物の河川はなく、一本の用水路があるだけで、雨季になれば漸く用水路に泥水が流れる。用水路の両側は切り立った山の斜面で、先人達はこの地形を生かして窰洞(横穴式住居、ヤオトン)を掘り、そこに住んだ。
梁家河村共産党支部の書記を務めた時期、習近平氏は人民公社の社員を引き連れ、土手を築いて沖積土の平地を良田にした。この田畑は現在でも村内で最良の耕地である。
習氏には、2隊のある社員の空いていた窰洞が割り当てられた。この時、彼はまだ16歳にもなっていなかった。
梁家河村で、知識青年達がよく食べたのはとうもろこしパンの他には、アワや緑豆麺、野菜といえば蒸したじゃがいもや茹でた白菜で、夏には野蒜の類の野草が加わった。油は生産隊が自ら搾ったゴマ油で、酒の空き瓶に詰めたものを、食事の時にちょっと垂らすことができれば良い方だった。肉などじゃ望むべくもなく、年越しの時にだけ、生産隊で1、2匹の豚を殺して1人に数斤(1斤=500g)の豚肉が分け与えられた。
習氏は梁家河村の生産隊にいた長い期間、基本建設隊で働いた。基本建設隊の主な任務は、土手を築いて沖積土の平地を作ることである。梁家河村の村民・梁新栄さんは、当時まだ10数歳だったが、基本建設隊で働いていた習氏の様子は、今日でもありありと目に浮かぶという。「彼は本当にやりましたよ。青色の古い綿入れの上着を着て、腰には発破に使った導火線を結わえ、書生風の尊大ぶったところなど全くありませんでした」。
現在、80歳を越えた梁有昌さんは、「苦難を耐え忍ぶ」という言葉で習氏を形容する。梁さんの記憶では、旧暦の2、3月頃、陝北では雪解けが始まり、集落の水路に土手を築くのだが、習氏はよくズボンを捲り上げ、裸足で冷たい氷の張る水に入って働いた。当時、人民公社の社員達は皆、習氏を「好青年」だと評価した。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2010年11月12日