これが、日本に対する中国の「紙切れ攻撃」事件である。第二次世界大戦中、反ファシズム陣営による初めての日本本土への空襲であったため、世界にセンセーションを巻き起こした。
徐煥昇
この任務を遂行したのは中国空軍第14部隊隊長の徐煥昇と編隊僚機の佟彦博である。彼等はそれぞれマーチンB-10型爆撃機を操縦した。この種の機の最大速度は時速343km、航続距離は900kmである。航続距離を上げるため、地上部隊は特別に彼らの機を改造した。
5月20日2時45分、2機の爆撃機は九州の長崎上空に近づいた。高度を下げて、層雲を通り抜ける。徐煥昇は地上に揺れる街の灯を目にし、狂喜せずにはいられなかった。
「投下準備!」、彼はためらうことなく命令を下す。
2機の爆撃機は弾倉を開けた。弾倉内の「紙爆弾」は、天女が撒き散らす花のように地上へと飛んでいった。
2機は長崎でのビラ散布を終えると、今度は福岡に向けて方向転換し、3時45分に福岡上空に到着し、残った全てのビラを散布した。この2機が日本本土で散布したビラの総数は100万枚を超える。
この時、日本の防空機関はようやく夢から目覚め、福岡での灯火管制を実施し、地上の高射砲も激しく火を吹き始めたが、これは中国機への「お見送りの礼砲」となった。
勝利で任務を終了させた後、2機は元の航路で西に向かい帰航の途についた。8時45分、僚機の佟彦博は玉山飛行場に着陸した。9時24分、隊長機の徐煥昇は南昌に着陸した。給油後に離陸した両機は11時13分に武漢上空で合流して、勝利のうちに凱旋し、前後して漢口飛行場に着陸した。