近代の東アジアで台頭、なぜ中国ではなく日本なのか

近代の東アジアで台頭、なぜ中国ではなく日本なのか。 1868年の明治維新は政治体制や社会・文化、教育・軍事、司法・宗教など様々な面に及んだ。同時期の中国もすさまじい勢いの洋務を展開、さらに1898年には上から下に至る資本主義改革、「戊戌変法」を実施しようとした。だが、中日の変法の異なる結果には実に深く考えさせられる…

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発信時間: 2011-01-17 14:17:05 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

第3は、日本民族の危機意識の強さであり、それは当時の清王朝の危機意識をはるかに超えていた。日本人は危機意識を非常に持っており、1つの問題が現実的な問題に変わらないときには常に、可能な対策を思考する人物がいた。今日の日本の社会でも、それぞれの緊急メカニズムはかなり完備されている。幕府統治の末期、西側列強による世界の横行は日本を深く動揺させた。そのため日本は、新法を実施して強国を目指し、自らを強大かつ安全にさせる決心を下したのである。

国内の政権を完全に掌握した以降も、明治政府は依然として西側強国の脅威を深く受けていると感じていた。そうしたことから、経済・軍事面で西側諸国に追いつくことが、明治政府の主要な目標となった。よく知られる「富国強兵」というスローガンはまさにその証左である。ただ、こうした安全に対する過度の敏感さと追求はある程度、その軍事大国化へのプロセスを促し、さらには軍事で安全を追求するという悪循環に陥るだけである。一方、当時の中国では、清王朝の危機意識の中でより強いのは、自らの統治に対する危機意識であって、中華民族全体が外の民族に侵略されて奴隷になることはない、という危機意識ではなかった。

「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年1月17日

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