講演するクリントン米国務長官 |
クリントン米国務長官は15日にジョージワシントン大学で講演し、昨年12月から現在までの西アジアや北アフリカ諸国の政変と結びつけ、昨年2月の「インターネットの自由」演説で指摘したインターネットを利用して米国の国益を推進する構想について詳細に説明した。(文:沈逸・復旦大学「公共事務と国際関係学院」博士、「文匯報」より)
演説でクリントン長官は「民主平和論」「人権外交」といった米国の伝統的外交理念によってインターネット技術を分析。特にフェイスブック、ツイッター、ユーチューブなどソーシャルネットワークの運用が中東地域での米国による民主主義の拡散に寄与し、こうした拡散が当初は従来の外交政策に少なからぬ打撃と困惑をもたらすとしても、長期的に見れば国益に合致するとの認識を示した。このためクリントン長官は、多額の資金を投じて米政府版の壁越え(ネット規制・検閲システム突破)ソフトを開発するだけでなく、世界各地のネット活動分子と直接対話を試み、16日には「世界中の市民社会」に対して初の演説を行なうとの野心的な計画をぶち上げた。
これに先立ち米国防総省と統合参謀本部の発表した重要報告「4年ごとの国防評価報告書(QDR)」と「米国の軍事戦略」と照らし合わせると、米国の新世代の安全保障戦略、外交政策策定者がインターネットの形成するグローバルデジタル空間に視線を注ぎ、これを国益を拡大するための重要なツールと見なしていることは明らかだ。
だが米国の利益が他国の利益と完全に一致することはあり得ないし、そう認められるはずもない。中東でインターネットの自由を実現し、インターネットの助けを借りて一様に「民主主義」を推進しようとするのなら、米国は対中東戦略全体を再構築し、イスラエルに対する支持を徹底的に改め、エネルギー獲得戦略を見直すことが必要だ。それだけでなく、中東地域の「多数」の民衆が健忘症にかかって中東戦争当時の、さらにはそれ以前の西側諸国との恩讐を忘れるように祈らなければならない。
このためクリントン長官は国益の視点からプラグマティズムへと立ち位置を変更し、「インターネットの自由」について、米国の国益に合致する定義を示した。すなわち▽米国の国益に合致するインターネットの自由、例えばイランのデモ参加者がネットを利用してデモを組織し、アハマディネジャド政権に反対するのは「良いこと」であり、後押しすべきである▽米国の国益に余り合致しないインターネットの自由、例えばヨルダンの民衆にもそのような意思があっても、米国は「ヨルダン国王は良い。首相を交代するだけでもいいだろう」と言う▽米国の国益と全く合致しないインターネットの自由、例えばウィキリークスはインターネットの自由とは呼べない----等々だ。
こうした立ち位置の変更は基本的に「米国例外論」の優越感を継承したものだ。このようなツール化した、あからさまなダブルスタンダードの「インターネットの自由」は、まさしく単独主義的心理、または道徳的に優れていると自任する超大国の政策決定者の傲慢な心理の、グローバルネット空間における体現である。本質的に言ってクリントン演説は情報の真の自由な流れに再び「死の接吻」をするものだ。米国務省が世界各国の民衆による情報への自由なアクセスに資金援助し、いわゆる民主主義を実現するというやり方は、こうした全ての行為に「目的は政権に挑戦し、さらには転覆することだ。米政府はこれを力強く支持する」とのラベルを貼るに等しい。これは極めてまずいラベルであり、このラベルの使用は情報の流れを人為的に塞き止める上で最良の外的証拠を提供する。なぜなら冷戦後に情報技術とインターネットが急速に拡張した根本的な原動力は政治的な中立性にあるからだ。
考えてもみると言い。グーグル社やツイッター社から「我々は単なる企業ではなく、米国務省の政権転覆活動を担う下部組織でもある」と公然と告げられたとしたら、こんな「企業」に門戸を開き、受け入れる政府が世界にいくつあるだろうか?エジプト情勢におけるフェースブック社の慎重な姿勢表明は、そこに含まれるこうした矛盾を明らかに示していた。
「人民網日本語版」2011年2月18日