釣魚島問題で歴史的根拠がないのは一体どの国か

釣魚島問題で歴史的根拠がないのは一体どの国か。

タグ: 釣魚島,琉球王国

発信時間: 2012-07-28 15:38:10 | チャイナネット | 編集者にメールを送る
郭汝霖著「石泉山房文集」

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 「産経新聞」の記事は、まるで鬼の首を取ったように日本人学者によるいわゆる「新発見」を紹介しているが、これも全く根拠にならない。

 この「新発見」とは、中国の明朝から1561年に琉球に派遣された冊封使・郭汝霖が皇帝に提出した上奏文「石泉山房文集」である(下の画像を参照)。

 記事では、「釣魚島が琉球に属すことを認める明朝の文献が見つかったのはこれが初めてであり、中国の主張に歴史的根拠がないことがいっそう明白になった」としている。日本人学者は文献を分析し、「赤嶼(赤尾嶼)そのものが琉球人の命名した境界で、明の皇帝の使節団がそれを 正式に認めていたことになる」と指摘、さらに「中国が尖閣を領有していたとする史料がどこにもないことは判明していたが、さらに少なくとも大正島(赤尾嶼)を琉球だと認識した史料もあったことが分かり、中国の主張に歴史的根拠がないことがいっそう明白になった」としている。

 しかし、これもまた日本が中国古代文献を歪曲し、新たな証拠としているだけなのだ。

 釣魚島列島は中国が先に発見し、命名し、記載し、利用したものであり、明朝がこれを中国海防図に描き入れたことは争えない事実だ。明の嘉靖40年(1561年)、胡宗憲と鄭若曾が編纂した「籌海図編」の「沿海山沙図」には、釣魚嶼、黄尾山(黄尾嶼)、赤嶼(赤尾嶼)が、浙江省と福建省に対する倭寇の攻撃を防ぐための前線として明確に描き込まれている。「皇朝中外壹統輿図(1863年)」の「大清壹統輿図」でも、台湾の東北に赤尾嶼を含む釣魚島列島が描かれている。明朝初年、中国は倭寇禁圧のため、日本に対し海禁政策をとったが、琉球との往来は奨励していた。1372年から約500年間にわたり、明清の二王朝は 琉球国王の即位にあたり24回にわたって冊封使を派遣し、琉球歴代国王の正統な地位を揺るぎないものとし、存続させてきた。

 明清二代の冊封使が残した「使琉球録」などの公式文献からも、釣魚島列島が中国に属することを証明できる。郭汝霖は明朝が琉球に派遣した第13回目の冊封使だった。郭汝霖は1562年に著書「石泉山房文集」の中で、嘉靖37年(1558年)4月2日、琉球冊封使の命を受けたが、福建省で倭寇の攻撃を受け、仕方なく嘉靖40年(1561年)5月に出航したと記している。文中に、「行至閏五月初三渉琉球境界地名赤嶼」という一行があり、これが一部の日本人を喜ばせている。彼らはこの部分のコピーをネット上で転載し、ご丁寧に赤字で線を引いている。やっとこじつけの根拠を見つけたのだから仕方無いことだが、残念なことにこれも低レベルの解釈ミスなのだ。

 古代漢語には句読点がない。この文は本来、「行至閏五月初三、渉琉球境界地、名赤嶼」と分けられる。文中の「渉」という字が重要だが、これは「水の上を、○○へ向かって進む」という意味であり、「入る」や「到達する」という意味ではない。古代漢語では、「入る」という意味の場合は「入」、到達するという場合は「至」を使う。例えば、1606年の第15回冊封使・夏子陽が、琉球から中国へ帰国する際に記した文章では「且離黒入滄、必是中国界」とある。これは、「黒水溝を渡り、(中国沿海の)青い海に入れば、中国境内に間違いない」という意味になる。

 つまり、先ほどの「渉琉球境界地、名赤嶼」の部分を正しく訳すと、「水の上を琉球との境界に向かって進む--名前は『赤嶼(赤尾嶼)』」となる。句読点が他の場所だと意味がやや違ってくる。例えば、「渉琉球境界地名赤嶼、」だと、地名が水の上を進んでいることになってしまい、意味が通らない。「渉琉球境界、地名赤嶼」であれば、「水の上を琉球との境界へ向かって進む。地名は赤嶼」となり、倒置法になる。「渉琉球境、界地名赤嶼」でも、「琉球との境に向かって進む、その境の名は赤嶼」となって意味が通る。

 ところが、この日本人学者は「渉」の字を「入る」と間違って解釈した。1字の違いが大間違いだ。その結果、この文は「琉球の境界内に入った。その名は赤嶼」ということになってしまう。これは全くのミスリードであり、自分も他人をも騙す行為だ。実は「渉」の字は日本語でも「渉る(わたる)」と読む。つまり、船がある場所からある場所へと向かうことを指し、「入る」という意味はない。どうやらこの学者はまず日本語を学んだ方がいいようだ。

 郭汝霖といえば、最も良く引用されるのが、琉球から帰国後の1562年に書いた報告書「琉球奉使録(使琉球録)」だ。郭汝霖はこの中で、「閏五月一日に釣魚嶼を通り過ぎ、三日には赤嶼についた。赤嶼は琉球との境にあたる山である。さらに一日進めば、姑米山(久米島)が見えてくる--六日午刻、土納己山が見えた。土納己山は琉球の案山である」としている。この「案山」というのは、古代の漢語で「境界の山」の意味を持つ。「土納己山」、すなわち琉球の渡名喜島は、久米島からそれほど遠くない東にある。ここからも、当時中国の冊封使が赤尾嶼を中国と琉球の境とし、渡名喜島を琉球の辺境にある島嶼の1つと認識していたことがわかる。郭汝霖は同時期に書いたほかの文献でも「渉琉球境界地、名赤嶼」、「赤嶼者、界琉球地方山也」などと書いているが、この2つの文はいずれも、「赤尾嶼は琉球との境にある中国の島嶼であり、琉球の島嶼ではない」という意味だ。

 日本のいわゆる学者たちは、郭汝霖の書いた「使琉球録」については見て見ぬふりをし、「石泉山房文集」の一文を勝手に改ざんし、曲解している。日本の一部の人々はあの手この手で日本にとって有利な歴史文献を探しているが、見つからないため、公然と中国の歴史文献を歪曲し、嘘で人々を惑わそうとしている。政治的な考え方が不正であれば、学術の分野でも正道に外れた行いを招くものだ。このような稚拙なやり方は、釣魚島が古来より中国固有の領土であるという事実を人々により深く理解させるだけだ。(文:清華大学当代国際関係研究院 劉江永副院長、編集SN)

 「人民網日本語版」2012年7月28日


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